2014年10月15日水曜日

傷心合戦と配慮要求


作家で愛知淑徳大準教授の諏訪哲史氏が毎日新聞の月刊誌「毎日夫人」に「うたかたの日々」を書いている。11月号を紹介する。
傷心合戦と配慮要求
僕のゼミ生は大学34年生で、みな成人だ。でも驚くほど幼い。まるで思春期の子供のようなナイーヴさだ。アニメやゲームやお絵かきやコスプレを好み、仲間とウェブ上へ画像を持ち寄って、ひたすら褒め合っている。「傷つけ合わない同盟」だ。
彼らを教えるのは実に難しい。論文や実作などを課す際、僕が彼らに与えるのは、①事前の助言、② 嘘のない講評③成果への賛辞、この三つだ。① は惜しみなく与え、③ は出来に応じて振る舞う。悩ましいのは②、つまり「ここはよくない」と指摘する段階だ。習作になら当然散見される欠点に触れず、適当に褒め流す怠惰は、学生への不義理でしかない。拙い作品のどこが拙いか、どう直すべきかを教えねばならない。怖いのはこの時だ。どれほど慎重な物言いをしても、幼い必死の作者たちは、僕の講評を聞くなり、「私の人間性への全的な否定」と取り、かつ「私のような人間はこの世に生きる価値なんかないんだ」と極論し、ことさらに嘆き、絶望しようとする。
純粋な子ほど、「批評」を「否定」としか捉えない。彼らには「称賛」だけが「肯定」なのだ。無暗に褒められてきた子供たち。素晴らしい、天才、といわれなければショックを受け、さらに「ここはよくない」といわれ驚く。彼らはこれを「怒られた」という。僕は怒ってなどいない。作品を離れた所では彼らを愛し肯定しているのに、僕の本音の指摘は「怒り」や「人格否定」と解釈されてしまう。
彼らの極論に従うなら、教えるは傷つけると同意になる。実はそれは一面の真理だ。なぜなら、この世で生きてゆくことそれ自体が、人と人とのたえまない傷つけ合いなのだから。子も親も教員も「分け隔てなく傷つけ合って」生きている。それを三者とも自分が一番つらいと思いたがる。一番傷つく者が一番配慮され、気遣われるからだ。
「傷心合戦」は子供に分がある。「子供より親が大事、と思いたい」(「桜桃」) と書いた太宰治は、子供の座をみなが争う社会の到来を見抜いていたのである。
作家であり、大学の先生という人の人を見る目は鋭い。参考にすべきと考える。

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