2013年4月12日金曜日

核と暮らす日々



池澤夏樹氏の「楽しい終末」(中公文庫)を借りて読む。その中で、「核と暮らす日々」という論文を紹介。
さて、大きな事故か何かをきっかけに世界中の世論が一致して核兵器が廃絶され、原子力発電所もすべて閉鎖されたとして、われわれは核とすっかり縁を切れるだろうか。核はそれぐらいのことでは立ち去ってくれない。
人類は今後いつまでも核の知識に耐えていかなければならない。1959年という冷戦もさなかの時点で発表されて今も読みつがれている『黙示録3174年』というSFがある。作者はウォルターミラー、ほとんどこれ一作で名を残した人である。世界規模の核戦争が起こり、人類のほとんどと文明の大半は失われる。残った人々は極端な知識嫌悪に陥り、オプスキュランティズム(蒙昧主義)がすべての知的活動をおしつぶし、世界は中世以前の状態に戻る。
しかし、その段階からまた人は少しずつ知識を集め、文明を作り、研究を進めて、かつての失われた文明を再興する。そして、結局はまた核兵器が作られ、使われる。
この話はあるカトリックの修道院を舞台にして、一千年以上に亘る長い未来史を三段階に分けて書いている。つまり、何がどうなっても人は核の知識から逃れることはできないのだ。中世に戻ったところでその時点から科学は再出発し、やがてまた人は核を手中に収める。われわれが核エネルギーの利用法を知っているという事実は消しょうがない。月がないふりをするのが無意味なのと同じように、核エネルギーが存在しないふりをするのもナンセンスである。
人間と核の関係は次々に違う数値を取る数列のように思える。この数列が先の方で収束しているのか発散するのか、今の段階では誰にも予測できない。ある日いきなりカタストロフィ現象が起こってすべてが終わりを迎えるかもしれない。
いずれにしても核の扱いに人は今後もずっと苦しむだろうし、絶対の安定に至って数列がずっと同じ数値を繰り返すようになることはないだろう。
火薬が社会史を変えたように核は人類の歴史を変えるだろうが、その変えかたは火薬の場合よりもずっとドラマチックで危ないものになりそうだ。核は今もわれわれにとって筆頭の脅威である。
池澤氏は作家と言うより、哲学者だと思う。20年以上も前に書かれた論文とは思えない思索がここにはある。

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