2013年4月30日火曜日

日本人とは何か

     加藤周一氏の「日本人とは何か」という本を読む。氏の本は、内容によってはわかりやすいが、この本は結構手強い。その中で、20年以上前に書かれたにも関わらず、今の現実を浮き彫りにしている、日本人論の一部を紹介する。
日本人とは何か
日本人とは、日本人とは何かという問を、頻りに発して倦むことのない国民である。今の問と答の歴史を詳しく省みる暇はないが、ここではその歴史が宣長と国学にはじまり、殊に明治以後に著しいとだけいっておこう。日本人とは何かという問が繰返されるのは、日人であることが、何を意味するのか、はっきりしないからにちがいない。なぜはっきりしないのだろうか。
たとえば独仏両国民はお互いに相手をみている。相手を観察するばかりでなく、相手の眼のなかに映った自分の姿を観察することに歴史的に慣れている。他人の眼はこの場合に、自分自身が何であるかを知るための鏡だ。鏡は歪んでいるかもしれないし、当方の全身を映してはいないかもしれない。
しかしとにかく当方の姿を映すことにまちがいはない。国境を接する他国民を観察し、その結果と比較することによって、自分自身の定義が容易になるだろうという話ではない。それは知的な客観的な問題にすぎない。
それより以前に、もし他人の眼のなかに自分を映す鏡を見出すことができないとすれば、どこに自分自身の姿を客観化する動機があるだろうかということである。自己を観察するのは、他人を観察するのとはちがう。私はこういう人間であるという結論に私が到達した瞬間に、その結論は必然的に誤りとなるだろう。なぜなら私はこういう人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だからである。
しかし実は、そういった瞬間に、私は、もはや私がこういう人間であると考える人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だと考える人間であろう。
しかし日本国民は他国民の眼のなかに自己の姿を読むことができなかった。いかなる他国民も日本を見てはいなかったからである。しかしそれだけならば問題は簡単であり、日本側でも相手をみていないかぎり、日本人とは何かという間そのものが生じないだろう。日本人以外の人間と一切関係がないときに、日本人とは何かということは意味をなさない。問題は日本人が絶えず外を見て来たと同時に、外からは見られていなかったという一方的関係によって生じる。中国と日本との関係は、ながい間独仏の関係のように相互作用を含むものではなかった。西洋と日本との関係もまた同様である。文化は一方的な方向へしか流れていない。ということは、鎖国を解いた日本が異常な注意を集中して西洋をみつめてきたということであり、逆にその西洋のなかに映じた日本の姿は、平和なときには安い缶詰を売る商人、いくさの時には神風特攻隊の操縦者、過去にさかのぼっては、たかだか江戸時代の版画の巧妙な素描家にすぎなかったということである。
日本人は外から見られてこなかった。ここが一番のポイントとなると考える。

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