2013年4月17日水曜日

公とは何か

 
 ある月刊誌の特集で、中野剛志しは「TPPと大阪維新に物申す」(今は日本維新)というタイトルで次のように述べている。
「公」とは何かを知るために
政治家が個人の責任で負い得る以上の重みを承知した上で、それでも、政治にたずさわろうとするなら、個人を超えた公の存在にならなければならない。私欲や私心を捨てて公に殉じるしかない。そして、おのれが殉ずべき「公」とは何かを知るために、政治家は必ず議論を求めるだろう。そして、その議論が続いている限りは、政治は何も決められないはずなのだ。
橋下市長はすぐに「責任」と口走るが、彼の念頭にある責任の取り方とは、せいぜい、彼個人が政治の表舞台から去ることぐらいだろう。いや、彼は、その程度の責任の取り方すらしないだろう。そんなことをしたら、彼が後生大事にしている「物事を決定する仕組み」から排除され、何も決められなくなってしまうからだ。
「物事を決定する仕組み」とは、要するに「権力」を言い換えたに過ぎない。「決めることが大事」というのは、 「権力こそがすべてだ」ということなのだ。その証拠に、橋下氏は、自著で政治家としての所信を次のように表明している。
政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。(中略)自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。(中略)別に政治家を志す動機づけが権力欲や名誉欲でもいいじゃないか!
(橋下徹「まっとう勝負」)
この下品で幼稚な政治理解を嗤うのは簡単だ。しかし、かつての小泉構造改革、政権交代、あるいはTPPもまた、 「大事なのは、おしゃべりではない。決めることだ」といった政治理解によって進められてきたのである。今もまた、消費税増税が「先送りできない」「不退転の決意」といった同種の台詞によって議論を封じ込めつつ、進められている。
議論なき官僚主義、責任なき全体主義、それが日本の政治を覆っている。そこから民を救い出せるのは、「物事を決定する仕組み」に抵抗して、何事もやすやすとは決めさせまいとしゃべり続ける、強靭な批判精神をおいて他にはない。
橋下氏のような、権力欲、名誉欲の権化のような者がのさばる様では、日本も終わりだ。まさに強靭な言論、行動が求められている。

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