2013年7月30日火曜日

あらためて「自己責任論」




 週刊金曜日に「自己責任論」辛坊氏の救助費用は約1000万という記事が載っていた。概略を紹介する。
(621()0756分頃、宮城県金華山南東方沖約1200kmの海域において、ヨット「エオラス号」が転覆し、乗員2名が救命艇で漂流。同日1000分に、第2管区海上保安部長から海自航空集団司令官(厚木)に対して、人命救助に係る災害派遣要請があった)
防衛省はヨット「エオラス号」で太平洋横断中に遭難したニュースキャスターの辛坊治郎氏と全盲の岩本光弘氏を救出するまでの経緯をこう文書でしめした。この災害派遣に関する救助費用として燃料代で約710万円、派遣隊員手当で約34000円かかったとした。また、海上保安庁は経緯をこう文書で説明した。(ヨット「エオラス号」浸水海難に関しまして、大型ジェット機1機及びヘリコプター搭載大型巡視船1隻が出動しました。()これらに係る燃料費は250万円程度)
海上自衛隊と防衛省あわせて約1000万円。これが辛坊氏らの救助にかかった費用だ。救助にはまず海上保安庁の航空機と巡視船が出動した。しかし、現場の波が荒かったため、海保は海上自衛隊に災害派遣要請を出す。海自は要請に答え救難飛行艇を出動させ、救助に成功したという経緯だ。
辛坊氏らは616日にブラインドセーリングでの太平洋横断のため、福島県いわき市の小名浜港を出港した。ブラインドセーラーによる太平洋横断は世界初だという。アメリカ到着を810日前後と予定していたため、時期的に成功すれば「24時間テレビ」で取り上げられただろうとの声もあった。しかし、企画した読売テレビ(大阪)はこの噂を否定している。
この救助に関して、「自己責任だから費用を個人負担すべき」という意見がある。なにより辛坊氏自身、04年にイラクでボランティアの日本人が武装勢力に拘束された時、自己責任論を持ち出して批判した経緯もあった。救助後、「週刊新潮」のインタビューで、辛坊氏はこのことを指摘され「私には反論できません」と答えている。しかし、警察や消防、自衛隊は国の機関であり、彼らは遭難者を救助することが任務だ。人の命を救うことを税金の無駄遣いと言うことはできないはずだ。
「海難救助は海上保安庁法に規定されている任務です。118番の通報は99%が間違いやいたずらですから、まずは事実確認を含め、巡視船やヘリで現場に向かいます」(海上保安庁広報室)
「災害派遣を要請できるのは海保や県知事、空港事務長など特定の地位にいる人物ですが、要請があった場合は必ず出動します。海保からの要請は現場が遠くの海域にあることや天候などで海保の部隊では救助困難なケースもあるので、よくある事例です」(防衛省海上幕僚監部広報室)
今回はたまたま有名人である辛坊氏だから騒動になったが、海難事故にあえば誰もが救助される権利があり、行政には救助する義務があることを忘れてはならないだろう。
まだ、一ヶ月しかたっていないのに、この事件は忘れてしまったようだ。私たちはこのことから、あらためて「自己責任論」を考えなくてはならない。

2013年7月23日火曜日

「うつ」と「落ち込み」

 
日経「半歩遅れの読書術」精神科医:斉藤環のエッセイは面白い。「新型うつ」に関してのところを紹介する。
昨今の精神医療においてしばしば取り沙汰されるのが、いわゆる「新型うつ病」問題だ。若い世代に多いこの病気については、「甘え」や「怠け」に似て見えるせいか、「治療すべきではない」という意見すらある。関連書籍も数多く出版されているが、むしろ多すぎて混乱してしまう。
そんなおり、かねて私が信頼する精神科医によるうつ病論が立て続けに出版された。まず加藤敏による『職場結合性うつ病』(金原出版)。加藤は昨今のうつ病が仕事の過重による心身の疲弊に関連しているとする立場から、この概念を提唱している。
労働時間の延長やゆとりの減少などとされるが、とりわけ重要と思われるのは、相手を無条件に思いやるフィリア(われわれという感情)の喪失に関する指摘である。
井原裕『生活習慣病としてのうつ病』(弘文堂)は、冒頭から過激な薬物治療批判ではじまる。抗うつ薬の効果はプラセボ(偽薬)とほとんど変わらないというイギリスの報道を例に挙げ、日本の精神医療における「薬物療法依存」を厳しく批判する。
井原はうつ病の多くが生活習慣病としての側面を持つことを強調しつつ、十分な睡眠の確保や断酒、運動の習慣や対人交流といった生活習慣指導を推奨している。こうした「薬に頼らない治療」を積極的に標榜する井原の活動に対しては、同業者として満腔の敬意と賛意を表明しておきたい。
イーサン・ウォックーズ『クレイジー・ライク・アメリカ』(紀伊国屋書店)には、アメリカで生み出された精神疾患の概念が、グローバル化の波に乗って全世界に深刻な影響をまき散らす経緯が描かれている。最終章では、日本のうつ病市場がどのようにメガマーケット化していったかが詳しく検証される。
本書によれば、巨大化をもたらした歴史的要因がいくつかある。電通社員の過労自殺裁判、製薬会社が主導した「うつは心の風邪」キャンペーン(データの捏造もあった)、そして阪神大震災と自殺の急増である。
かくして、わが国本来の「悲しみ」を肯定的に捉える文化的風土は破壊され、変哲や無気力は薬によってコントロール可能であるという幻想がばらまかれ、心の文化は大きく変質したのだ。
なにも医療不信を煽るつもりはないし、何であれ過信と依存が好ましくないのは当然のことだ。私がこの著者たちを信頼するのは、現状を憂えつつも精神医療のあるべき理想”は信じようとするその基本姿勢ゆえである。
悲しみによる「落ち込み」をうつとみなして、治療することは間違いである。悲しみ時はしっかり悲しむことが必要である。後は時間が解決してくれることが多い。

2013年7月22日月曜日

ファミコン敬語



ファミコンと言うと、「ファミリー・コンピューター」の略と思うのだが、ここでの意味は「ファミレスやコンビニ」の略らしい。毎日新聞の日曜版に松尾貴史氏の「ちょっと違和感」のいうエッセイが載っている、今回は、私が日頃から思っていることを書いてあったので、まさにその通りと合点した。一部を紹介する。
JR北海道の千歳線で火災があったそうだ。配電盤が燃えていたとかで、女性のリポーターが現場の様子を紹介していた。「こちらが火災のあった配電盤になります」いよいよファミコン敬語(ファミリーレストランやコンビニエンスストアで使われているマニュアル敬語)が報道現場でも定着し始めたかと思った。これまでにも散見されたが、そういう場合は、「火災のあった配電盤はこちらになります」という言い方が多かった。何か、「これです」と簡潔に言うと丁寧さに欠けるとでも思っているのか、さいごを「なります」と言う若い人が多くなって、不快になります。
以前から私は「ホットコーヒーになります」と言われると、「いつですか?」「今は何ですか?」と聞いているのだけれども、誰しもがきょとんとするだけで去って行ってしまう。
「ホットコーヒーです」と言うことになぜ抵抗があるのだろう。ぞんざいに感じるなら「ホットコーヒーでございます」でもいい。私は、「ホットでーす」と置いて行かれる方がよほど快適なのだけれども、なぜか多くのアルバイト店員さんたちは、なります、なります、なのだ。ひどいときには、他の物は何一つ頼んでいないのに、「こちら、ホットコーヒーのほうになります」などという。
その口調が、事故現場の記者の口から千出ると緊迫感が削がれる。まるで、配電盤の新製品を紹介するナレーターコンパニオンのようでもある。
先日、番組内で解説してくださる専門家の先生をスタッフが私たち出演者に紹介する時に、「こちら、〇〇〇先生になります」と言っていた。これから頑張って偉い先生になるのかなあ。
最近は大気の状態がとみに不安定で、気象情報には少々過敏だ。今朝つけていたテレビの天気予報で各地の天気を解説していた予報士の方が、「次は尖闇諸島です」という。ほう、中国の天気予報でも既成事実を作るためにやっていたと報道されたが、日本までもがそんなレベルに下りて行かなくても良いのになあと独りごちて画面を見たら、字幕に「洗濯情報」と書いてあった。不審船より紫外線を。
「ホットコーヒーになります」と言われたら、「いつなるのですか」と今度言ってみようかな。最近、コンビにに入ると「いらしゃませ・・こんにちは・・~」という言葉よくききませんか。これも違和感。

2013年7月19日金曜日

原発輸出

  
民医連医療の畑田重夫氏の メディアへの「眼」を紹介する。
「主要メディアの人道性の欠如」
今月は、日本国民として我慢のならないことについて書きたいと思います。それは、主として次の2つのことについての主要メディアの態度に関連することです。1つは、核兵器廃絶問題と歴代日本政府の政策・態度との関連であり、1つは、原発の輸出問題にみる安倍内閣の政策に関連することです。
原発の輸出に前のめりの安倍首
主要メディアのアベノミクス礼賛についてはすでにこの連載でもふれましたが、内閣支持率が高どまりを保っているのをいいことに、すっかり調子づいている安倍首相5月の大型連休中には中東歴訪の旅に出ましたが、その行く先々で何と原発のセールスに奔走したのです。
福島第一原発の事故について2年以上経っても事故原因の特定さえできず、放射能汚染の拡大を止めることも、高濃度の汚染水の処理方法も見出すことができず、いまだに15万人の住民が避難を強いられている現実をよそに、「日本は世界一安全な原子力発電の技術を提供できます」といいながら51日にはサウジアラビアのジッタで、同国の政府関係者を前に安倍首相は自信満々の様子で、日本の原発の売りこみを行いました。トルコでもトップセールスで受注しました。
原発関連企業と、それとゆ着を深める自民党政府にとっての魅力は、原発一基5000億円という経済的利益にあるのでしょう。安倍政権が、原発や原発技術の輸出をめざす国々には、ヨーロッパではイギリス、フランス、ポーランド、チェコ、中東ではトルコ、ヨルダンUAE(アラブ首長国連那)、サウジアラビア、アフリカでは南アフリカ、南米ではブラジル、アジアではベトナム、インドがあげられます。
安倍首相は529日には来日中のインドのシン首相とも官邸で会談し、福島の原発事故を機に中断していた原子力協定交渉を再開し、原発輸出を視野に早期妥結にむけて交渉を加速することで合意しました。ここでついでに言っておきたいことはインドという国は、NPT未加盟の核保有国であるということです。
安倍内閣は原発の再稼働を既定の方針としています7月に原子力規制委員会が原発に対する「規制基準」を正式に決めるのをうけ、北海道・泊、柏崎刈羽、関西電力・高浜(福井)、伊方、玄海、川内などの原発について再稼働の手続きをすすめることを計画しています。
安倍内閣がいまやるべきことは、原発事故の「収束宣言」を撤回し、収束と廃炉、除染と賠償を日本の英知と技術のすべてを結集して何ごとにも優先する一大事業としてやりぬくことではないでしょうか。
原発事故を経験したから、世界で一番安全な原発だから、輸出するのだと言っているのだ。彼の口にガムテープを貼って、黙らせて欲しい。

2013年7月18日木曜日

猫を抱いた父

梯久美子さんのエッセイ「猫を抱いた父」(求龍堂)から、まさにそのタイトルのエッセイを紹介する。
猫を抱いた父
一緒に旅をして、いままで知らなかった父を発見した。イスタンブールの街角で靴磨きのおじさんにタバコをねだられ,並んで一服している姿を少し離れたところから見ていると'まるで知らない人のように見えた。
エフエソスという遺跡の町で、神殿の柱の陰に一匹の子猫がいた。足元にまつわりついてきたその猫を、父は抱き上げた。父が猫に触るのを見たのは初めてである。
「おれは子供の頃、いつも猫と寝ていたんだよ」
喉を撫でながら言う。初耳だった。そういえば父は幼い頃に母親を亡くしている。子供時代の父の姿を、初めて想像してみた。猫を抱いてひとりで眠る幼い男の子が目に浮かんだ。
当時六十九歳の父は、オリーブ油とチーズがたっぷり使われたトルコ料理を毎食残さずたいらげ、日本食が食べたいとは一度も言わなかった。観光地の駐車場で'子供たちが次々に絵葉書を売りに来ると,黙って同じものを何セットも買い、バスの窓から見えなくなるまで手を振った。
父は陸軍少年飛行兵学校にいたときに戦争が終わり、戦後は自衛官になった。娘の目から見ると、ただただ謹厳実直で面白みのない人だった。けれども旅の時間の中では、違う顔が見えた。三十代も半ばになるまで、私は父のことをほとんど知らずに来たことに気がついた。
子供の頃から、父とのコミュニケーションはあまりなかった。完全な放任で、学期末に通知表を見せしっけろと言われたことさえない。躾に類することも、小学生のとき食事中に肘をついて叱られた記憶があるくらいで、正直に生きよとか、人には優しくしろなどという人生訓めいたものをロにするのを聞いた覚えもない。進学や就職のときもアドバイスはなかった。
自由な半面、あまり期待されていないんだなあと、少し寂しい気持ちで育ってきた。一対一で五分以上話したことはおそらくないと思う。いま思えば、子供と会話する語彙をもたない人なのかもしれない。
帰りの空港のロビーで、父が長椅子に座ってタバコを吸っていると、若い男が近づいてきた。私は少し離れたコーヒースタンドにいたのだが、怪しげな団体が寄付をねだりにきたのだと思った。海外の空港で、そういう経験をたくさんしていたからだ。海外旅行は初めてで英語もわからない父は、いいカモである。
声をかけられた父は、吸っていたタバコを灰皿で消し、姿勢を正して、隣に座った相手に向き直った。男は手にクリップボードを持ち、何事か質問している。彼が去って言った後、父に「何だったの」と訊くと、空港の使い勝手についてのアンケートを取りにきた職員だという。
「きちんとした青年だったよ。片言だけど日本語もできた」
私だったら、用件を聞く前に追い払ったろう。見知らぬ男に、礼儀正しくタバコを消して向き合った父の姿に、旅慣れたつもりで、いつのまにか倣慢になっていた自分を反省した。
その後も父と何度か旅をした。少しずつ、ひとりの男性としての父が見えてきた。私が父を再発見できる歳になるまで元気でいてくれたことを、ありがたく思う。
まさに、私の父と同じ年代である。昔の父親はこんな人が多かったと思う。父との関係でこんなエッセイを書ける著者は羨ましい。いい文章である。


2013年7月16日火曜日

島田雅彦

 

 島田雅彦というと、すぐに左翼っぽい小説家と言う人は、そうはいないと思う。(ちなみに「島田」とネットで検索すると最初に出てくる人物は「島田紳助」であった。)
今は大学教授という肩書きも持っている。何度も芥川賞候補になっているが、芥川賞はとっていない。なのに、芥川賞の選考委員になっている。その彼が赤旗に以下の文章を載せているので、紹介する。
アベノミクスで自民党の支持基盤である輸出中心の大企業は大いに潤ったでしょう。ただ、購買意欲がそそられて消費行動に走ったのは富裕層だけで、ぎりぎりかつかつの生活をしている人たちに一切の恩恵はないはずです。
賃上げは、デフレ脱却の最初になされるべきものでした。ところが賃金は上がらず、野菜や貧民層の生命線というべきマヨネーズの値段が上がりました。
原発再稼働は、自然エネルギーへの転換をする気がないということでしょう。結局、自民党は何もしない.「保守」とは、問題を棚上げするのが上手な人たちのことです。
有権者が反対票をどこに投じるかの選択肢を迫られたときに、先の衆院選のような選択肢はない。都議選の結果が示したように、共産党の場合は軸がまったくぶれずにやってきたことに対する信任があると思いますね。
利潤追求を第一に考えていた時代は終息に向かっているという歴史認識があるかないか。これは今後のライフスタイルを分けるのかもしれない。産業資本主義の発展段階は永遠に続かないからです。
まさに彼の言っている通りである。「保守」とは、問題を棚上げにするのが上手な人たちのことですは至言である。

2013年7月12日金曜日

ネットと世間

 ネットでの選挙活動が認められた。ネットとの付き合い方を改めて考えなくてはならない。以前にも紹介した佐藤直樹氏の「なぜ、日本人は世間と寝たがるのか」とう本のなかでネット上でのバッシングの文章があった。一部紹介する。
ネット上でのバッシング
最近でも、「世間」とメディアが一体となって加害者家族を非難し、当然のように、家族がメディアに向かって謝罪させられる。とくに、九八年以降保守化への逆転が生じ、「世間」が前景にせりだして以降、加害者家族に謝罪を要求するメディアスクラムが、以前と比較してもひどくなっているように思える。
それを辺見庸も、つぎのように批判している。
日常というものの実態はどうやら世間である。そう確信するにいたる出来事が次々に起きています。「略」また、JR岡山駅で一八歳の少年が居合わせた乗客を線路に突き落とす事件があり、事件後に謝罪記者会見にのぞんだ容疑者の父親がジーパン姿であったことがインターネット上で責めたてられました。私は唖然とせざるをえない。あまりにも馬鹿げた誹謗はいうまでもなく、あんなふうに容疑者の家族が申し開きをする必要があるのでしょうか。これは誰がさせていることなのか。世間の声を受けたマスコミが家族にやらせている。世間に強いられて家族がやらされている。これはこの国に特有な現象です。若い記者たちが当然のことのように容疑者の家族の記者会見を聞いている。したり顔で聞いている。私は危倶を禁じえません(「愛と痛み」より)
よく、犯罪ニュースでは、容疑者の近隣の人へのインタビューがある。容疑者のひととなりを聞いている映像が流される。これも世間のなせる技である。これがネット上でのバッシングを日常的に起こさせている原因になっている気がしてならない。

2013年7月10日水曜日

上から目線

    
 二木立氏の「医療経済・政策学関連ニューズレター」の私の好きな名言・警句の中から、伊藤真氏の本から引用している部分を紹介する。
伊藤真(弁護士。司法試験合格のカリスマ「塾長」)「説得したり、伝えたりするのに、技術やテクニックというのはそれほど必要ではないのだ。それよりも、人の気持ちを理解する感性に磨きをかけることや、自らを磨いて高めていく自己研鑽のほうが、深く伝えるためには役に立つ」、「自分の思いというのは、決して『上から目線』では伝わらない(中略)人に伝えるときは、『自分でもできそうだ』『ああ、なるほどね。自分もやってみようかな』と思ってもらえるようにしなければ、伝わらない。いくら頑張ってすばらしい話を伝えたいと思っても、それが受け手の心の中に何らかの形で響いていかないと、自分のものとして取り込めないのだ。(中略)深く伝えるために必要なのは、『謙虚さ』である『深く伝える技術』サンマーク出版,2013,69-70,99-101)二木コメント-これらは「情理」の重要なポイントだと感じました。
自分の思いは「上から目線では伝わらない」という言葉はまさにその通りだと思う。

2013年7月8日月曜日

まっとうな店

 
 毎日新聞の日曜版に海原純子氏の「新・心のサプリ」は以前にも紹介したことがあるが、面白い。77日のエッセイの一部を紹介する。東京の千駄木、根津あたりの個性的な店での食事の話であるが、近頃はやりのチェーンのレストランと比較している。
まっとうな店
さて、仕事場の付近でお昼を食べるようになってちょっと驚いた。何軒かの店に行ったが、各々個性的。そして共通しているのは、とても「まっとうな」感じがすることである。最近都心ではレストランの対応であれっと思うことがしばしばある。お客が数人しかいなくてスタッフは多いのに対応が間に合わないレストランや、見かけだけはきれいだけれど料理はいい加減でコストパフォーマンス最優先の店などがそれだ。
ところが、仕事場周辺の小さな店はどこに行ってもまっとうなお昼が食べられる。少ないスタッフでフル回転。20席余りをフロアの青年一人で仕切っていたり、民家の12階を一人で切り盛りするシェフ兼経営者兼ウエートレスの女性の、気どりも無駄もなく、しかし温かくほっとする対応はしばらく忘れていた昔の感覚だ。
なまっとうな感じがするのは何故だろうと考えると、二つの要素があることに気づいた。ひとつは店で働く人すべてが「人ごと」になっていないことだ。自分の役割分担だけでなく全体をみて仕事をしている。一体感があるのだ。第二は、力の出し惜しみをせず全力で仕事をしていることである。時間だけいればいいや、という仕事ぶりで労を惜しむようなサービスに慣れていた近ごろ、安価な昼食だからと手ぬきをしない姿勢で働く人たちをみると、これが日本のよさなのだなあ、と思えてくる。
一体感、力の出し惜しみをしない、という二つの要素は大きな意味をもつように思える。何故なら自分の仕事の分担を全力で担いながら他者とのかかわりを大切にし、全体の方向性をきちんとみすえる、という仕事のやり方は社会の中での個人の生き方に通じるものがあるからだ。
自分の分担だけをして他の人が何をしているか全く知らず、従って全体がどういう方向に進んでいるかについて関心はなく、他人のことなど関係ない、という仕事のやり方は現代の都会の風潮で、そのことがそのまま都会の問題点になっているのではないだろうか。
人事でない、力の出し惜しみをしない、一体感、これらは言葉は、そのまま、われわれの職場に当てはめて考えたい。

2013年7月5日金曜日

国破れて資本あり

 
 雑誌「経済5月号」の「世界の金融・経済危機をどうみるか」(森本治)の最後の部分を紹介する。
むすびにかえて
欧米の資産バブルが崩壊して金融危機が勃発し、世界経済は、金融機関の連鎖的破綻の危機や景気の著しい低迷に見舞われた。欧米諸国の政府は、「世界恐慌」をなんとしても回避すべく、金融機関の救済と景気のテコ入れのために膨大な財政出動を行った。もちろん、欧米の中央銀行も金利の引き下げや大規模な資金供給を行った。
アメリカの金融危機はとりあえず沈静化したが、なかなか景気は回復していない。ヨーロッパでは、資産バブル期に南欧諸国の国債投資にのめり込んだ英独仏の多くの金融機関が、欧州債務危機によって、経営危機に陥っている。欧米諸国政府は、膨大な財政赤字を抱えて経済危機や金融危機に対して十分な対応ができなくなる中、中央銀行が「大胆な金融緩和」を行って、なんとか「恐慌」の爆発を抑え込もうとしている。
既に1990年代初頭に資産バブルが崩壊した日本では、長期不況とデフレに見舞われている。安倍政権は、日銀に政治的圧力を加えてデフレを脱却し、円安誘導で輸出大企業にかなりの利益を上げさせている。もちろん、それだけでは景気は浮揚しないので、昔と同じように膨大な公共投資を行っている。
日銀には、物価上昇率を2%に引き上げさせようとしている。しかし、円安によりガソリン・灯油・食料品等の価格が上昇し、労働者・庶民の生活を苦しめている。膨大な内部留保を抱える大企業は、賃上げや労働条件の改善に背を向け続けている。物価を2%に上げると言っているのに、賃上げがゼロであれば、実質的には2%の賃下げとなる。ますます個人消費が減退し景気が後退するので、政府はさらに日銀に圧力を強めて、「大胆な金融緩和」を行わせて、株価・地価を引き上げさせ、資産バブルを起こさせようとしている。
それでも景気が良くならなければ、「国土強靭化計画」を遂行するとして日銀に建設国債を引き受けさせて、日本全土を掘り返すことになるであろう。こうして、日銀に新たな資金を大量に出させインフレをすすめる策は、庶民に対する究極の増税に他ならないのである。
このような最悪の事態を回避するには、地球環境保全型への経済・産業構造の大改革、大幅な賃上げと労働条件の向上と福祉の充実による個人消費の拡大、大企業と富裕層への増税と財政の無駄の徹底的な排除による財政再建等が不可欠である。
大企業は、2%の物価上昇率やTPP (環太平洋経済連携協定)への参加を政府に要望し、さらなる利潤追求を行おうとしているが、賃上げしなければ、ますます消費が冷え込んで、景気がさらに悪化することを全く理解していない。大企業は自分で自分の首を絞めているのである。利潤率が低下すると量で補おうとして、生産を拡大し、結局は「恐慌」を繰り返してきたのと次元は同じである。
賃上げと労働条件の向上を目指す労働者の闘いは、ますます重要な歴史的使命を帯びてきているのである。「国破れて、資本あり」とならないように。
この文章が今の日本の全てを言い表している。まさに「国破れて、資産家笑う」である。

2013年7月2日火曜日

「改革」「変革」


「続ける力」(伊藤真)から、もう一つ紹介する。
「改革」「変革」の名を借りた「過去の否定」
しかし最近は、「改革」や「変革」ばかりが声高に叫ばれ、「変えずに継続していく」という、生きることの本質から目がそむけられているように思えます。
もちろん、私は、変化や改革の価値を否定しているわけではありません。
たとえば企業の活動の本質は、イノベーションにより新たな技術や商品を生み出すことにあります。「変わること」なくして、新たな価値の創造はありえません。
しかし、そうであっても、前提になるのは、会社そのものの存続です。またGEのような革新性をアイデンティティとする企業ほど、その根底では、創業者が掲げた理念や創業当時の志をかたくななまでに守り続けています。
会社をとりまく環境や時代がどう変わろうとも、「自分たちは何のために事業をしているのか」という根本的な目的意識は変えない。そして、その理念を守るために、変えるべきところを変えていくことは、企業が存続するための絶対条件ではないでしょうか。 
私が「改革」や「変革」ばかりがもてはやされる風潮を危ういと思うのは、「改革こそが正しい」「新しいものにこそ価値がある」という考え方は、自分たちが積み重ねてきた「過去」の否定につながりかねないからです。
そこからは、先人たちが培ってきた知恵を学び、「人類の叡智」を将来に継承していくという姿勢は生まれにくい。これはじつにもったいないし、危険なことでもあります。
人間が自分たちの知恵だけでやれることなど、たかが知れています。過去の蓄積に目を向けることなく、目先の損得勘定だけで「変革」を続けていけば、私たちの社会はただ迷走と混乱を繰り返すだけではないでしょうか。
「改革」「変革」「脱却」・・・聞こえのいい言葉には気をつけた方がいい。自分たちことしか考えていない輩のいう言葉である。他人のことを思いやる「想像力」のある人はこんな言葉を叫ばない。