2013年10月30日水曜日

教育とはエロス

   毎日新聞、鹿島茂の「引用句辞典」から、“大学入試制度改革”についてのコメントを紹介しよう。
   文部科学省が教育再生実行会議の提言を受けて、センター試験を廃止し、「基礎」と「発展」の二段階からなる達成度テストに替えると言い始めた。
   教育現場にかかわっている人間にとっては「またかよ、もう、いいかげんにしてくれ!」 というのが本音だろう。とにかく、文部科学省が(審議会の答申という形式は取るものの)なにか「改革」を思いつくたびに、事務仕事の量が倍になり、教育どころの騒ぎではなくなるのが常だからだ。
   極論すれば、文部科学省とは、雑務を増やし教育を阻害するためにのみ存在する官庁である。「最も良い文部科学省とはなにもしない文部科学省である」と囁かれているのを当の役人は知っているのだろうか?
   制度をいじれば教育の質が向上すると考えるその発想法がそもそもの誤りなのである。教育というものに携わったことのない彼らは教育の本質というものをまったく理解していないのだ。
では、教育の本質とはいったい何なのか?
   プラトンに言わせると、それはエロスであるということになる。エロスとは生き物に子を産むようにしむける神である。死をまぬがれぬ動物はエロスに導かれて、より良きもの、より美しきものと結合して子をなさんとする。自己をより良くより美しく永遠に保存し、不死にしたいからである。
   しかし、人間という特殊な動物にはこうした生物学的自己保存願望のほかにもう一つ、自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に自己を保存したいと欲するのだ。「そのような者たちは、通常の子育てをする夫婦よりもはるかに強い絆と堅固な愛情で結ばれることになる。なぜなら、彼らが一緒に育てている子どものほうがより美しく、より不死に近いのだから。どんな者でも、人間のかたちをした子どもよりも、このような子どもを自分のものにしたいと願うことであろう」
   もちろん、ここにはプラトン特有の少年愛的なエロスが暗示されている。しかし、プラトンが本当に言いたいのは、教育というのは本質的にエロスの支配する領域であり、知を獲得したものが自己保存本能に駆られて行う再生産にはかならないということだ。この意味で、教育ほどエロチックなものはない。
   少しでも教育に携わったことのある人ならこうした教育のエロチシズムというものが理解できるはずだ。教育は、それがうまく行けば、教える側には大きなエロス的快楽をもたらすのであり、この快楽があればほかに何もいらないほどなのである。
文科省の役人に決定的に欠けているのはこうした教育のエロス的側面への理解である。教えることが好きで好きでたまらない人間のヤル気をそぐこと。文科省の役人の狙いは、どうもここにあるとしか思えないのである。
   鹿島氏はフランス文学者であるので、よく「プラトン」を引用するが、なかなか的確でユニークである。「教育とはエロス」であるというプラトンは今から2400年位前の古代ギリシャの哲学者であるが、この言葉は今の時代にそのまま通じる。

2013年10月28日月曜日

莫言

   「莫言」とは、と聞かれてすぐに答えられる人は少ない。「ばくげん」と読む。2012年度「ノーベル文学賞」を受賞した中国人である。予想では、「村上春樹」が受賞するであろうと言われた年度の受賞者である。彼の本を大部分翻訳している吉田富夫氏が書いた「莫言真髄」という本を読んだ。「莫言」とは何者であるかを紹介して本である。そこで紹介されている、2010年に彼が日本に来た時の講演の一部を紹介する。
   人々はなぜ貧困を忌み嫌うのでしょうか。貧乏人だと思うさまおのれの欲望を満足させられないからです。食欲にしろ性欲にしろ、虚栄心にしろ美の追究にしろ、病院で行列せずに診察してもらうにしろ、飛行機でファーストクラスに来るにしろ、すべてカネで満たし、カネで実現しなければなりません。むろん、王室に生まれるとか、高官になるとかすれば、上述の欲望を満足させるのにたぶんカネは必要としないでしょう。富はカネに由来し、貴は出身や家柄や権力に由来します。むろん、カネ持ちになれば、貴を気にかけることはありませんし、権力を手にすればカネの心配もないらしい。なぜなら、富と貴とは密接不可分で、一つの範疇に合体させうるものだからです。
   貧乏人が富貴を羨み、それを手に入れようと望むのは人情の常で、正当な欲望でもありまして、孔子さまもこのことは肯定しておられます。ですが、孔子さまは、富貴を望むのが人の正常な欲望だとしても、正当ならざる手段で手に入れた富貴は享受すべきでないとも言っておられますーーー 貧困は誰しも忌み嫌うが、正当な手段を用いずして貧困を脱却するなど、すべきではない、と。    
   今日、二千年前の聖人の数えは、もはや民百姓の常識になっています。ところが、現実生活にあっては、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至った者がゴロゴロしていますし、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至りながら懲罰を受けていない者がゴロゴロいますし、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至る人たちのことを痛罵しながらも、おのれにチャンスさえあれば同じことをする者にいたってはもっとゴロゴロしています。これぞすなわちいわゆる、世の気風は日に下り 、人心は古のごとくならずであります。
   古人はこうしてわれわれのために無欲恬淡として貧に安んじ道を楽しむという道徳的手本をうち立ててくれていますが、その効果は微々たるものです。人々は血を吸う蚊か臭にたかる蝿のごとくに名利を追求し、古今にわたって無数の悲劇を演じてきました。むろん、喜劇も無数に。
   社会生活を反映する芸術形式としての文学は、当然この問題をおのれの研究し描写するもっとも重要な素材としてきました。文学者も大多数は富を愛し名利を求めますが、文学はカネ持ちを批判し、貧乏人を称えるものです。文学が批判するカネ持ちはカネのために酷いことをしたり、不正な手段で富を得た人で、称えるのは貧乏でありながら人としての尊厳を失わない貧乏人です。
ちょっと思い出しただけで、文学におけるそうした典型的人物をたくさん思いつきます。作家たちはそうした人物の性格を作り出すにあたって、生死や愛憎の試練を与える以外に、常套手段として富貴を試金石として人物たちを試します。富貴の誘惑に耐えぬけばむろん本物の君子ですし、それに耐えられないと小人や奴僕や裏切り者やげす野郎に成り果てます。
   まさに、今の中国の現状を憂えている文章である。
私は、ノーベル文学賞など興味はない。彼が、受賞した時、中国ではあまり歓迎されていなかった。何故か、その辺を知りたくてこの本を読んだ。あらためて彼の本を読みたいと思った。「莫言」はペンネームである。「いうなかれ」と読む。彼は小さい時から「おしゃべり」で、よく母親から叱られたのでそれをペンネームにしたそうである。

2013年10月25日金曜日

池上彰の政治学校


   「池上彰の政治学校」という本を入手した。今、本屋へ入ると、池上彰の本が何冊も平積みにして売られている。私は、このような売られ方をしている本は読まないことにしている。古本市で安く売られていたので、読んでみた。「食わず嫌い」もいけないと思って。その中で、成る程と思ったところを紹介する。
       若者よ、投票へ行こう
   日本の政治の問題として、若い人を中心に日本人が選挙に興味を示さなくなり、このところ投票率が下がっているという事実があります。これは民主主義の根幹を揺るがす由々しき事態です。
では、日本人に選挙に興味を持ってもらうには、どのような方策があるのか。
   アメリカの学校では、授業でさまざまな実際の政策を披露しながら、どれがいいかを決めるために「模擬投票」まで行うことがありますが、同じように日本でも、小学校や中学校から、社会科の時間などを利用して政治教育をする必要があるという話が出ています。
   ただ、日本の学校で政治教育をするのは簡単ではありません。たとえば、衆議院議員選挙に合わせて、「さあ模擬投票をしてみよう。みんな、どの政策がいいと思うかな。今の立候補の中で誰がいいと思う? 考えてみよう、実際に投票してみよう」などという授業をすれば、すぐにマスコミが、「学校の先生がそんなに政治的なことをやっていいのか」といったネガティブな報道をするはずです。父母の中には、学校や教育委員会に文句を言いにいく人も出てくるでしょう。
    だから、学校の先生はうっかりしたことは言えません。とにかく教科書に書いてある一般論として選挙の仕組みの話しかできない。それでお茶を濁して先へ進む。こうして政治に関する本当にしなくてはならない教育が行われていないのです。いわゆる「関心を持たせる」ような教育ができないわけです。
   実は、私が若者の投票率を上げる秘策として考えているのは、二つあります。一つは、今解説したように小学生、中学生の頃から、「模擬投票」など、政治に興味を持たせるような授業をすること。そしてもう一つが、選挙権を与える年齢を引き下げることです。 
たとえばへ18歳から選挙権が与えられるようになったとします。すると高校生のときから選挙権を持つことになるわけです。高校生であれば、まだ純情ですから、「選挙に行かなければいけないよね」と言われれば、とりあえず投票に行く人も多いと思います。そこで政治に興味を持ってもらえれば、大きな動きにつながる可能性がある。
   ところが20歳になると、すでに就職していたり大学へ行ったりしていて、まず時間がありません。それに、地方から都会の大学へ進学している人も多いでしょう。自分の地元であれば、どのような問題があり、どのような候補者がいるのか、わずかながらでも耳に入れたことがあるかもしれませんが、東京に出てきたばかりでは、候補者も知らないし、何が問題なのかわかりません。結局、関心も持たないし、投票にも行かないということになってしまいます。
そうして何年も行かなくなると、「選挙に行かない癖」がついてしまいます。あるいは、行ったとしてもどうしていいのかわからないから、怖くて行けないという人も出てきます。 
   高校生のときに、とにかく自分が生まれ育ったところで一度でも投票をしておけば、少なくとも選挙で票を入れるときに何をすればいいのかわかるようになります。それに18歳から政策について自分の考えを持つようになれば、精神的にも成長するようになるでしょう。政府も18歳から選挙権を付与する方針を打ち出しましたが、いつまで経っても実現する気配がありません。
   私は、18歳からの選挙権に賛成である。しかし、当面はならないだろうなあ・・・。

2013年10月23日水曜日

校庭に東風吹いて


 赤旗連載小説「校庭に東風吹いて」の159回目を紹介する。真治と知世は夫婦、ユリはその娘。彰は知世の兄で、母親を妹の夫婦に面倒を見て貰う内容のところである。作家は柴垣文子氏である。
   二月の連休が始まった日、名古屋の兄が訪れた。知世は真治とユリとともに出迎えた。彰は和室に入ると、畳に両手をついた。
「きょうだいを代表して、お礼とお願いに上がりました。母との同居を引き受けていただいて、ありがとうございます。よろしくお願いします」
   「分かりました」真治は真面目な顔で答え、ユリはうつむいている。「楽にしてよ」知世は言った。しかし、兄は正座したままだった。
再び、兄は深く頭を下げた。「たくさんのきょうだいがいながら、真治君たちに頼むのは心苦しいことです。それでも無理を承知でお願いしたいのです。ここで暮らしたいという母の望みをかなえてやりたいのです。ユリちゃんも頼みます」
   彰の言葉に、ユリが驚いた様子で顔を上げた。「はい」うわずった声で応えた。真治が口を開いた。
   「お義母さんと家族になりたいと思いますので、よろしくお願にいいします。お義兄さん、今回、家族について考えました」
「真治君の家族論を聞きたいものですね」
   「家族論というほどのことではありません。結局、苦楽をともにする、という昔の言葉にいきつきました。同じ食卓を囲む、同じ庭を眺める、ひとつ屋根の下で暮らす、日常の暮らしを積み重ねて、苦楽をともにすることだと思うんです」
   「よろしくお願いします」再び、兄は深く頭を下げた。
「知世は働いていて、僕には転勤の話があります。しかし、これまでも、厳しい局面をなん度も切り抜けてきました。今回も精いっぱいやります」真治の声は明るかった。
   「さあ、楽にして」知世はお茶を勧めた。茶わんを手に取り、すすってから彰が口を開いた。
   「しばらくの間、おふくろと一緒に暮らしてみて分かったよ。やはり、時間と労力は考えていた以上だ。通院はあるし、三食の糖尿病食を作らなければならない。一日も休みなしだ」
その言葉に昨秋、しばらくの間だったが、母と一緒に暮らしたときの気ぜわしかった日々がよぎった。
   「僕はなぜか、お義母さんと気が合います。だから、家族になれると思います」真治が快活な口調で言うと、彰は頬をゆるめた。
「ありがたい言葉だが、同居が双方に強いストレスを生むことはまちがいない。お互いに距離が必要だろうな。知世は一緒に入浴していたそうだな。おふくろは喜んでいたよ。だが、おふくろは一人で入浴できる。知世はとも働きだ。自分の時間を大切にした方がいいよ」
   距離が必要、という言葉に思い当たることがあった。「考えてみます」知世は答えた。「ところで、おふくろの永住の場所について、きょうだいの意見が、いろいろあったのには驚いたよ。なん度もやり取りをして、最後は親の意思を尊重することにまとめたよ」
   東風は(ひがしかぜ)と読むのだろう。古典では(こち)と言う。
「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は菅原道真の歌である。この時は東風(こち)である。
   それはいいとして、「同じ食卓を囲む、同じ庭を眺める、ひとつ屋根の下で暮らす、日常の暮らしを積み重ねて、苦楽をともにすることだと思うんです」という言葉、身につまされる。

2013年10月21日月曜日

ビッグイシュー

 ビッグイシューを購入した。「ビッグイシュー」はホームレスの人々に収入を得る機会を提供する事業として、1991年に英国ロンドンではじまった。300円定価でそのうち160円が販売者の収入になるシステムである。その中で、「浜矩子のストリートエコノミクス」という連載コラムがある。以下の紹介する。
万事は人間中心でなくっちゃ
日弁連の人権擁護大会に、シンポジウムのパネリストとして参加した。国防軍創設構想を軸に、憲法改正問題を論議した。
人権擁護に燃え、平和憲法を守り抜く決意固き参加者たちの熱気が心強い会合だった。パネルの論講も高質で濃厚だったと思う。
議論が進む中で、あることに気づき始めた。それは、とかく、人間と経済はかけ離れていると思われがちだが、人間と外交・安全保障との関係にも、同じ側面があるということだ。いずれも、変な話だ。経済活動は人間の営みだ。外交・安全保障は人間と人間との関係をつかさどる営みだ。いずれも、定義上、そこから人間が疎外されるはずのないテーマだ。
ところが、実際に議論を始めてみると、どうしても、話は国家という存在を語る方向に進んでしまう。アメリカがどうした。中国がどう出る。その時、日本はどう反応する。そういうトーンで話が進む。むろん、それは重要な視点だ。だが、国家を語る時、我々は国民を忘れてはいけない。国家は国民のために存在する。その逆ではない。国々の人々がお互いにどのような関係を形成するか。そこを取り扱うのが外交・安全保障の仕事だ。国々の人々はお互いに何を与え合い、何をどう分かち合うのか。そのあり方の総体として経済活動がある。
我々の視野から国民が消えて、国家ばかりを語るようになると、必ずや、議論がおかしな方向に行ってしまう。グローバル時代においては、経済上も外交・安全保障上も、国家間関係はことのほか難しくなりがちだ。グローバル時代が国境なき時代だからである。
だが、グローバル時代が国境なき時代だからこそ、人々の間の経済的絆はかってなく強まり、おつき合いのあり方は一層幅広く、濃密になっている。誰もが、みんなグローバル長屋の住人だ。何をテーマに議論するにしても、そこが発想の焦点でなければならない。改めて、そう痛感した。
浜矩子氏は1952年生まれである。私と同い年である。
国家、国家、国家と連呼する人や文章は、まともに信じない方がいい。

2013年10月15日火曜日

イアン・ブルマ

   東洋経済にイアン・ブルマ氏(米バード大学教授)世界の視点のコーナーで「キリスト教軟化と集団的道徳の崩壊」という文章を書いている。その中の一部を紹介。
   集団行動の道徳的基盤を確立する新しい方法ははたしてあるのだろうか。世界の形を変える新しい市民ネットワークのためのスペースを提供することで、インターネットがその役割を果たすだろうと考える夢想家もいる。SNSが大義名分のために人々を結集するという考えもある。
   だがネットは、実際には、私たちを逆方向に向かわせている。ネットにけしかけられて私たちはナルシシスト的消費者となり、自分の「いいね」を表したり、誰とも気持ちが本当に通じ合っているわけではないのに私生活の一から十までをシェアしたりしている。
   これは、善悪を定義したり集団における意義や目的を確立したりする新しい方法を見出す際、何の拠り所にもならない。ネットが果たしてきたのは、営利企業が私たちの生活や思考、欲求に関する巨大なデータベースを構築するのを容易にするという役割だ。
   大企業はこの情報を大きな政府に横流しする。だからスノーデン氏の良心は、政府の機密を私たち全員とシェアしなければ、と彼に思わせたのである。スノーデン氏は私たちに「いいこと」をしてくれたのかもしれないが、私としては懐疑的だ。
   前後の文章がないので、理解し難いかもしれないが、「ネットが果たしてきたのは、営利企業が私たちの生活や思考、欲求に関する巨大なデータベースを構築するのを容易にするという役割だ。」というところは、鋭い視点である。

2013年10月11日金曜日

POPEYE


   月刊「POPEYE」をご存知だろうか。主に若者をターゲットにした、写真が多い雑誌である。これが結構、大人にも読める記事もあるのだ。今回「大人になるには?」という特集を組んでいたので購入した。その中で、24歳のライターが山田太一インタビューした記事を紹介する。以下その概要である。
   確かに、人を知るということは大人になるひとつの方法なのかもしれない。そういう意味では、ドラマを見ることはものすごく勉強になる。ある日、編集長に借りた「ふぞろいの林檎たち」を見て、ぼくはそう思った。昔のドラマだと甘く見ていたが、人間のどうしようもない悲しさをここまで感じたシーンはあまり見たことがない。
   ぼくはこの話の生みの親にどうしても会いたくなった。だめもとで事務所に電話をかけてみると優しい声のおじさんが出た。まさかの本人である。あたふたしながら企画を説明すると「じゃあ来週の金曜日の16時に喫茶店で」とお茶の約束をするような軽やかさで取材が決まった。即決である。当日、デパートの中にある喫茶店に山田太一さんはフラッと現れた。
   「こんにちは、山田です」あの名シーン、“ヌカれ泣き”を作った人とは思えない物腰の柔らかさに驚いた。
「大人ですか? ほっといてもなりますよ(笑)。まぁ、固いことを言わないのが大人なのかなあ」
   ぼくは、その言い方から「この人は、やはり、相当な不良なのではないか」と思った。「若いときは、自分の正しさに燃えますからね。それも他人からインプットされた正しさに。その視点で世界を全部捉えられるぞと興奮して万能感を手にした気になったりね。でも、それは大抵間違い(笑)。人間はものすごく偶然の中にいて、非常に不平等な世界で生きてる。同じ時代に生まれた人でもまったく平等じゃないでしょ? しかも、個人差がある上に、その時代にたまたま適応できる人とできない人がいる。そんな中で失敗する場合もあるし、成功する場合もある。でも、それは自分の力じゃないんですよね。多くの要因は、“なにか”のせいですよ。それが自分のコントロールのおかげだと思っていたらちょっとバカね(笑)」
24歳で、やる気に満ちた発言をすると「若いからなんでもできる」と応援されることはあるけれど、“間違い”と言われることはなかなかない。でも、山田さんにはきっと若者の“間違い”の原因が見えているのだろうと、その不敵な笑みを見て感じた。
   「若いときは、努力すればなんとかなるっていう一本調子の人生観じゃないですか。正しいものは勝つ!とかね。でも世の中をみていると「勝たないことがある」ことがわかってくる。そうすると、人っていうのは、自分を棚に上げられなくなりますよね。道徳とか倫理に反する人を徹底的に叩くということができないはずなんですよ。「もしかすると、自分がその状況でもやるかもしれない」という留保を持つようになるんです。だから、大人かどうかはそういう認識を意識的、知的に持つか持たないかだと思いますね。子供は自分のことはピュアだと思っているから、「あいつは信じられない奴だ」とか言って、極端になると死ねとか思ったりするでしょ。だから、原理主義というのは子供の考えですね」
   そう考えると、あの中井貴一はどうなのか? あのやるせない怒りには時代を超えたなにかを感じるけど、山田さんから見て今の時代はどう見えるのだろうか。
   「社会の大きな流れは止めることはできませんね。現代で言うと世の中が過度にテクノロジー化していくという流れはもう止められませんよね。でも、一人一人はブレーキをかけられますよね。ぼくは普段ほとんど車を使わないで電車に乗ったり、歩いたりしているんですけど、そうするといろんな人を見られるんですよ。効率のよい、体を使わない日々より味が深い。テクノロジーに対して、自分の中でストップをかけられるのも大人の教養だと思いますね。 
   最近は、ちょっと不自由とかちょっと不便とか、ちょっと貧乏ってかっこいいなって思ってます。みんなで新しいものを追いかけて「おれは人より適応した」と未来に向かって競うっていうことは、みんなで現代を逃げているんですよね。現代を生きていないのね。だから、みなさん現代を生きましょう(笑)」
   「テクノロジーに対して自分の中でストップをかけられるのも大人の教養」「原理主義というのは子どもの考え」という考えは言い得ている。自分の力でなんでもできると勘違いしている政治家がいかに多いことか。

2013年10月9日水曜日

いわさきちひろ

   文藝別冊「いわさきちひろ」を読む。ちひろ関連本は年に何度か見たり、読んだりすると心がやすらぐ。今回読んだなかで、ちひろが2人の結婚にかんするエピソードを書いている。一部紹介する

   わたしの結婚
   「花とぶどう酒とーーー二人だけの結婚式」 いわさきちひろ
松川事件、三鷹事件があいついでおこったころでした。画の勉強をしていた私は、ふと絵筆をおきました。これはとてもたいへんなことです。この真実をすこしでもおおくの人に知ってもらいたいと、私はポスターはりやビラくばりを急にいっしょうけんめいにやりだしました。そんな私たちのところへ、国会の共産党の秘書をしている青年が、ある日入ってきました。
   ナッパ服をきて、ゾウリはきの人でした。彼はよく何か用事をつくって私のところにやってきました。
   「絵をみせてください」ともいってきました。そして食事をしていくのです。飯ごう一ぱいのごはんとイカの煮つけが一日中の食事といった自すい生活をしていた彼でしたから、ほんとは女の人の手づくりの料理が目あてだったかもしれません。
   「善明さんって、ステキ!」とおっしゃる若い娘さんもあるそうですが、そのころの松本はけっして素敵なんてものではありません。ビラはりにいくのにも、二人であるくのにも、神田の舗装道路をピタピタとゾウリはきなのです。靴が買えないのだろうかと思った私は、さいわい画料が入ったので、
   「靴を買ってあげましょうか」といいますと、
   「ぼく、靴なら家に六足ももっている。でもぼくは一生、革命に身をささげるんだから、靴など買う身分にはならないと思う。だから六足の靴は一生だいじにはくんだ」
というのです。
   結婚してから私がこの話をもちだすとてれくさそうに“つまらない話はよせ”といいますが、一生貧乏な生活をしていくんだと確信をもっていった二十三歳の青年に、私がひどくうたれたことはたしかです。
   私たちが結婚したころのことを話しあうと、松本は、私が結婚を申しこんだのだといいます。私が「マルクスの奥さんは年上ね、レーニンもねーー 」といったのが、松本より年上の私の結婚申しこみだというのです。私はそんなつもりでいったのではないと主張します。そしておしまいには「錯覚結婚だ」といって笑ってしまうのです。
   ちひろの夫はご存知のように、元共産党国会議員だった「松本善明」である。終戦後5年たった時、6歳年下の「革命に生きる人」と結婚した「いわさきちひろ」は本当に純粋な人だったと思う。

2013年10月7日月曜日

あべこべ

   毎日新聞の論説委員が、発信箱というコラムを毎週書いている。一人よがりのコラムもあるが、今回は面白いので紹介。  
   金づちとクギ抜き
鎮具は「ちぐ」と読み、金づちを指す。破具は「はぐ」でクギ抜きのこと。二つあわせた「ちぐはぐ」は、金づちとクギ抜きを交互に使って、仕事が進まず何をしているのかわからない、というのが語源。
ことばの由来を集めたサイト「語源由来辞典」にある説明だ。裏づけがなく一俗説らしい、と書かれているけど、ちぐはぐ感は十分出ている。
   安倍晋三首相が消費税の「来年4月8%」を決めた。同時に約2%にあたる5兆円を使い景気対策をする。毎年の借金を少しでも減らそうと我慢する増税なのに、景気対策の名の下、ばらまく。
   ちぐはぐの関連語に、「あべ・こべ」というのもあった。1993年から2009年の間、日本人の平均年収は441万円から385万円に減ったのだけど、最大の原因は、小売りなどサービス産業でパート労働者が増えたことと労働時間が減ったことだという。経済産業研究所の児玉直美さんらが調べて行きついた結論。「誰の賃金が下がったか。一口で言うと、製造業よりサービス産業」
   サービス産業で給料が増えるよう知恵をしぼる時に、製造業にお得な円安政策や減税をやる。利益がなく法人税を納めていない企業が全体の7割、これを何とかしなきゃいけないのに、残り3割相手の法人税減税で、賃金上昇が広がるって。
   新明解国語辞典(第7版)によると、「あべこべ」は、「順序・位置・関係などが、本来あるべき状態とは逆であること」。そして、「ちぐはぐ」は、「期待したことと結果とがひどく違っていていらいらさせられる(不運を嘆きたくなる)感じ」。嘆いてからでは遅い。国のお金の「入り」と「出」、両方に目を光らせないと。
   「ちぐはぐ」と「あべこべ」は「アベノミクス」のキーワードにしたい。

2013年10月4日金曜日

死に支度

 月刊誌「群像」に連載されている「死に支度」という小説の一部分を紹介する。はたして作家はだれでしょうか。

春の革命
   台所で、食べ終ったばかりの食器を洗いながら、私は首を廻して背後の壁の時計を見た。七時二十分と確かめると、思わずひとり笑いがこみあげてきた。こんなに早く、こんなに食器の数の少ない朝食を私は四十年近くもこの寂庵でとったことがない。たいてい寂庵に居る時は、深夜も、早朝もひたすら机にしがみつき、書きに書いていて、私の眠りは深い代りに至って短い。
   スタッフたちの就業時間は朝九時から午后五時まで、量食休みは適当にと決めてあるので、九時ぎりぎりまで誰も出勤して来ない。彼女たちが揃い、いっせいに雨戸をくったり掃除の物音を賑やかにたてはじめると、ようやく私は目を覚まし、寝足りない仏頂面で、みんなに「おはよう」と声をかけるのだった。まだ頭の中に書きかけの原稿が重くわだかまっている時は、向うから「おはようございます」と挨拶されても耳に入らず、むっとした顔つきのまま、返事もしない時があるらしい。彼女たちは、長い歳月の間に、私のそんな表情の意味も読みとっていて、そういう時は自分たちも足音をつつしみ、黙って香り高いコーヒーだけをさしだしてくれる。
「どうかもう台所に来ないで下さい」台所一切を取りしきっていたハンちゃんこと森はるみから、ある朝、面と向って宣告されたのは何年前のことだったか。
   「どうして?」
   「だって、先生が台所に見えると、必ず食器の数が増えるんですもの」
   聞いていた他のスタッフが声を揃えて笑う。私が台所で何か手出しをすれば、粗相して食器を割ってしまうということなのだ。一緒に昼食を取りながら、岡本かの子はよく台所で自分が食器を割ることを食器の数が増えると表現したと、笑い話にしたことを覚えているのだ。そのかわり、私は彼女たちがどんな高価な食器をこわした時も怒ったためしはない。
   「物は、いつかはこわれるのよ。人は必ず死ぬ。逢った者は別れる。それが人生の法則だから。こわした時はごまかさずに、今度から気をつけますと、謝ればいいのよ」
   自分の粗相に脅えていたスタッフは、ほっとした顔になり改めて両手をついて謝るのだった。その真似をして、私はかしこまってハンちゃんに深く頭を下げた。
「いやだ、そんな芝居みたいなことをして、からかわないで下さいよ」
   年と共に体つきにも性根にも貫禄を増してきたはるみを、昔のままハンちゃんと呼ぶのは私だけで、次々増えてくるスタッフたちは、誰が言いだしたか、みんな「お姉さん」と彼女に呼びかけ、自然に敬語を使うようになっている。年中旅に出て留守がちか、在庵の時には仕事に追われて上の空の私は、頼りにならないと見え、いつの間にか全員が何事によらずはるみの指示で動いていた。私の食事の世話は、はるみが一手に引き受け、ほとんど他のスタッフに手を出させない。
   作家の名前は「瀬戸内寂聴」である。今年の5月で91歳になった。この年でまだ連載を書いているだけでもすごいのに、文章が若い。「物は、いつかはこわれる。人は必ず死ぬ。逢ったものは別れる・・」まさにその通り。
因みに90歳は卒寿という。卒の略字は「卆」と書く。九と十と書くので90歳を「そつ寿」と言う。卆寿を過ぎてなお健在である。

2013年10月2日水曜日

名言・警句

  二木立氏の「私の好きな名言・警句」から紹介する。
  植草一秀(エコノミスト、スリーネーションズリサーチ株式会社代表取締役)「現実には一つ一つのファクトがあるだけです。それをどう読むかは、無限の可能性がある。その時、ある仮説を立てて、それらの関連性を読み解いてゆく。こういう出来事の因果関係について、確実な証拠が揃うというようなことはないわけですから、結局すべては推論でしかなく、そういう言い方をすればすべての推論は陰謀論になってしまうわけです。ある仮説を立て、現実の流れを読み解いてゆく、その推論が信じられないのか、説得力があると見るかということだけなのです。客観的に見てかなり無理のあるこじつけをしているなら陰謀論でしょうし、客観的にみて絶対とは言えないまでも、そういう見方が成り立ちうる推論までを、陰謀論として切り捨てようとするのは、逆の立場から、そう推論されることを否定したいという意向を反映しているのではないかと思うのです」(鳩山由由紀夫・孫崎亨・植草一秀『「対米従属」という宿痾』飛鳥新社,2013,152-153頁。孫崎亨『戦後史の正体』を「典型的な陰謀史観でしかない」と批判した、佐々木俊尚氏の「朝日新聞」書評を批判して)。二木コメント-私は「陰謀史観」は嫌いですが、自分と違う主張・推論を反証も示さず「陰謀史観」と切り捨てる「上から目線」はもっと嫌いです。植草氏の発言を読んで、次の言葉を思い出しました。

  野谷茂樹(東京大学教養学部助教授・当時)「前提から結論へのジャンプの幅があまりに小さいと、その論証は生産力を失う。他方、そのジャンプの幅があまりに大きいと、論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら、小さなジャンプを積み重ねて距離をかせがなくてはならない。それが論証である」(福沢一吉『議論のレッスン』(生活人新書,2002,92頁)。「飛躍をともなわない意見は主張ではない」の項で、野谷茂樹『論理トレーニング』産業図書,1997)の複数の箇所から総合的にまとめた形で引用)。

  高橋伸彰(立命館大学国際関係学部教授、日本経済論)「国によって人びとの行動パターンは違います。違うのがおかしいというほうが本当は『おかしい』。日本の経済学者やエコノミストの多くは『アメリカでは』を連発するデハ(出羽)の守ばかりです。『日本には』というニハの守をもっと増やすべきです」(高橋伸彰・水野和夫『アベノミクスは何をもたらすか』岩波書店,2013,92頁)。二木コメント-私も「アメリカに限らず、どこの国であれ、特定の国を礼賛する『出羽の守』は、現実の改革には無力だと考えて」いるので大いに共感しました(『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,100-101頁)。

  大学時代「アメリカでは」を連発する教授を思い出した。
何事も「面倒くさがらない」事が前進の一歩であると考える。