2013年10月2日水曜日

名言・警句

  二木立氏の「私の好きな名言・警句」から紹介する。
  植草一秀(エコノミスト、スリーネーションズリサーチ株式会社代表取締役)「現実には一つ一つのファクトがあるだけです。それをどう読むかは、無限の可能性がある。その時、ある仮説を立てて、それらの関連性を読み解いてゆく。こういう出来事の因果関係について、確実な証拠が揃うというようなことはないわけですから、結局すべては推論でしかなく、そういう言い方をすればすべての推論は陰謀論になってしまうわけです。ある仮説を立て、現実の流れを読み解いてゆく、その推論が信じられないのか、説得力があると見るかということだけなのです。客観的に見てかなり無理のあるこじつけをしているなら陰謀論でしょうし、客観的にみて絶対とは言えないまでも、そういう見方が成り立ちうる推論までを、陰謀論として切り捨てようとするのは、逆の立場から、そう推論されることを否定したいという意向を反映しているのではないかと思うのです」(鳩山由由紀夫・孫崎亨・植草一秀『「対米従属」という宿痾』飛鳥新社,2013,152-153頁。孫崎亨『戦後史の正体』を「典型的な陰謀史観でしかない」と批判した、佐々木俊尚氏の「朝日新聞」書評を批判して)。二木コメント-私は「陰謀史観」は嫌いですが、自分と違う主張・推論を反証も示さず「陰謀史観」と切り捨てる「上から目線」はもっと嫌いです。植草氏の発言を読んで、次の言葉を思い出しました。

  野谷茂樹(東京大学教養学部助教授・当時)「前提から結論へのジャンプの幅があまりに小さいと、その論証は生産力を失う。他方、そのジャンプの幅があまりに大きいと、論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら、小さなジャンプを積み重ねて距離をかせがなくてはならない。それが論証である」(福沢一吉『議論のレッスン』(生活人新書,2002,92頁)。「飛躍をともなわない意見は主張ではない」の項で、野谷茂樹『論理トレーニング』産業図書,1997)の複数の箇所から総合的にまとめた形で引用)。

  高橋伸彰(立命館大学国際関係学部教授、日本経済論)「国によって人びとの行動パターンは違います。違うのがおかしいというほうが本当は『おかしい』。日本の経済学者やエコノミストの多くは『アメリカでは』を連発するデハ(出羽)の守ばかりです。『日本には』というニハの守をもっと増やすべきです」(高橋伸彰・水野和夫『アベノミクスは何をもたらすか』岩波書店,2013,92頁)。二木コメント-私も「アメリカに限らず、どこの国であれ、特定の国を礼賛する『出羽の守』は、現実の改革には無力だと考えて」いるので大いに共感しました(『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,100-101頁)。

  大学時代「アメリカでは」を連発する教授を思い出した。
何事も「面倒くさがらない」事が前進の一歩であると考える。  

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