2013年10月30日水曜日

教育とはエロス

   毎日新聞、鹿島茂の「引用句辞典」から、“大学入試制度改革”についてのコメントを紹介しよう。
   文部科学省が教育再生実行会議の提言を受けて、センター試験を廃止し、「基礎」と「発展」の二段階からなる達成度テストに替えると言い始めた。
   教育現場にかかわっている人間にとっては「またかよ、もう、いいかげんにしてくれ!」 というのが本音だろう。とにかく、文部科学省が(審議会の答申という形式は取るものの)なにか「改革」を思いつくたびに、事務仕事の量が倍になり、教育どころの騒ぎではなくなるのが常だからだ。
   極論すれば、文部科学省とは、雑務を増やし教育を阻害するためにのみ存在する官庁である。「最も良い文部科学省とはなにもしない文部科学省である」と囁かれているのを当の役人は知っているのだろうか?
   制度をいじれば教育の質が向上すると考えるその発想法がそもそもの誤りなのである。教育というものに携わったことのない彼らは教育の本質というものをまったく理解していないのだ。
では、教育の本質とはいったい何なのか?
   プラトンに言わせると、それはエロスであるということになる。エロスとは生き物に子を産むようにしむける神である。死をまぬがれぬ動物はエロスに導かれて、より良きもの、より美しきものと結合して子をなさんとする。自己をより良くより美しく永遠に保存し、不死にしたいからである。
   しかし、人間という特殊な動物にはこうした生物学的自己保存願望のほかにもう一つ、自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に自己を保存したいと欲するのだ。「そのような者たちは、通常の子育てをする夫婦よりもはるかに強い絆と堅固な愛情で結ばれることになる。なぜなら、彼らが一緒に育てている子どものほうがより美しく、より不死に近いのだから。どんな者でも、人間のかたちをした子どもよりも、このような子どもを自分のものにしたいと願うことであろう」
   もちろん、ここにはプラトン特有の少年愛的なエロスが暗示されている。しかし、プラトンが本当に言いたいのは、教育というのは本質的にエロスの支配する領域であり、知を獲得したものが自己保存本能に駆られて行う再生産にはかならないということだ。この意味で、教育ほどエロチックなものはない。
   少しでも教育に携わったことのある人ならこうした教育のエロチシズムというものが理解できるはずだ。教育は、それがうまく行けば、教える側には大きなエロス的快楽をもたらすのであり、この快楽があればほかに何もいらないほどなのである。
文科省の役人に決定的に欠けているのはこうした教育のエロス的側面への理解である。教えることが好きで好きでたまらない人間のヤル気をそぐこと。文科省の役人の狙いは、どうもここにあるとしか思えないのである。
   鹿島氏はフランス文学者であるので、よく「プラトン」を引用するが、なかなか的確でユニークである。「教育とはエロス」であるというプラトンは今から2400年位前の古代ギリシャの哲学者であるが、この言葉は今の時代にそのまま通じる。

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