2013年10月28日月曜日

莫言

   「莫言」とは、と聞かれてすぐに答えられる人は少ない。「ばくげん」と読む。2012年度「ノーベル文学賞」を受賞した中国人である。予想では、「村上春樹」が受賞するであろうと言われた年度の受賞者である。彼の本を大部分翻訳している吉田富夫氏が書いた「莫言真髄」という本を読んだ。「莫言」とは何者であるかを紹介して本である。そこで紹介されている、2010年に彼が日本に来た時の講演の一部を紹介する。
   人々はなぜ貧困を忌み嫌うのでしょうか。貧乏人だと思うさまおのれの欲望を満足させられないからです。食欲にしろ性欲にしろ、虚栄心にしろ美の追究にしろ、病院で行列せずに診察してもらうにしろ、飛行機でファーストクラスに来るにしろ、すべてカネで満たし、カネで実現しなければなりません。むろん、王室に生まれるとか、高官になるとかすれば、上述の欲望を満足させるのにたぶんカネは必要としないでしょう。富はカネに由来し、貴は出身や家柄や権力に由来します。むろん、カネ持ちになれば、貴を気にかけることはありませんし、権力を手にすればカネの心配もないらしい。なぜなら、富と貴とは密接不可分で、一つの範疇に合体させうるものだからです。
   貧乏人が富貴を羨み、それを手に入れようと望むのは人情の常で、正当な欲望でもありまして、孔子さまもこのことは肯定しておられます。ですが、孔子さまは、富貴を望むのが人の正常な欲望だとしても、正当ならざる手段で手に入れた富貴は享受すべきでないとも言っておられますーーー 貧困は誰しも忌み嫌うが、正当な手段を用いずして貧困を脱却するなど、すべきではない、と。    
   今日、二千年前の聖人の数えは、もはや民百姓の常識になっています。ところが、現実生活にあっては、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至った者がゴロゴロしていますし、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至りながら懲罰を受けていない者がゴロゴロいますし、正当ならざるやり方で貧を脱して富に至る人たちのことを痛罵しながらも、おのれにチャンスさえあれば同じことをする者にいたってはもっとゴロゴロしています。これぞすなわちいわゆる、世の気風は日に下り 、人心は古のごとくならずであります。
   古人はこうしてわれわれのために無欲恬淡として貧に安んじ道を楽しむという道徳的手本をうち立ててくれていますが、その効果は微々たるものです。人々は血を吸う蚊か臭にたかる蝿のごとくに名利を追求し、古今にわたって無数の悲劇を演じてきました。むろん、喜劇も無数に。
   社会生活を反映する芸術形式としての文学は、当然この問題をおのれの研究し描写するもっとも重要な素材としてきました。文学者も大多数は富を愛し名利を求めますが、文学はカネ持ちを批判し、貧乏人を称えるものです。文学が批判するカネ持ちはカネのために酷いことをしたり、不正な手段で富を得た人で、称えるのは貧乏でありながら人としての尊厳を失わない貧乏人です。
ちょっと思い出しただけで、文学におけるそうした典型的人物をたくさん思いつきます。作家たちはそうした人物の性格を作り出すにあたって、生死や愛憎の試練を与える以外に、常套手段として富貴を試金石として人物たちを試します。富貴の誘惑に耐えぬけばむろん本物の君子ですし、それに耐えられないと小人や奴僕や裏切り者やげす野郎に成り果てます。
   まさに、今の中国の現状を憂えている文章である。
私は、ノーベル文学賞など興味はない。彼が、受賞した時、中国ではあまり歓迎されていなかった。何故か、その辺を知りたくてこの本を読んだ。あらためて彼の本を読みたいと思った。「莫言」はペンネームである。「いうなかれ」と読む。彼は小さい時から「おしゃべり」で、よく母親から叱られたのでそれをペンネームにしたそうである。

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