2013年10月21日月曜日

ビッグイシュー

 ビッグイシューを購入した。「ビッグイシュー」はホームレスの人々に収入を得る機会を提供する事業として、1991年に英国ロンドンではじまった。300円定価でそのうち160円が販売者の収入になるシステムである。その中で、「浜矩子のストリートエコノミクス」という連載コラムがある。以下の紹介する。
万事は人間中心でなくっちゃ
日弁連の人権擁護大会に、シンポジウムのパネリストとして参加した。国防軍創設構想を軸に、憲法改正問題を論議した。
人権擁護に燃え、平和憲法を守り抜く決意固き参加者たちの熱気が心強い会合だった。パネルの論講も高質で濃厚だったと思う。
議論が進む中で、あることに気づき始めた。それは、とかく、人間と経済はかけ離れていると思われがちだが、人間と外交・安全保障との関係にも、同じ側面があるということだ。いずれも、変な話だ。経済活動は人間の営みだ。外交・安全保障は人間と人間との関係をつかさどる営みだ。いずれも、定義上、そこから人間が疎外されるはずのないテーマだ。
ところが、実際に議論を始めてみると、どうしても、話は国家という存在を語る方向に進んでしまう。アメリカがどうした。中国がどう出る。その時、日本はどう反応する。そういうトーンで話が進む。むろん、それは重要な視点だ。だが、国家を語る時、我々は国民を忘れてはいけない。国家は国民のために存在する。その逆ではない。国々の人々がお互いにどのような関係を形成するか。そこを取り扱うのが外交・安全保障の仕事だ。国々の人々はお互いに何を与え合い、何をどう分かち合うのか。そのあり方の総体として経済活動がある。
我々の視野から国民が消えて、国家ばかりを語るようになると、必ずや、議論がおかしな方向に行ってしまう。グローバル時代においては、経済上も外交・安全保障上も、国家間関係はことのほか難しくなりがちだ。グローバル時代が国境なき時代だからである。
だが、グローバル時代が国境なき時代だからこそ、人々の間の経済的絆はかってなく強まり、おつき合いのあり方は一層幅広く、濃密になっている。誰もが、みんなグローバル長屋の住人だ。何をテーマに議論するにしても、そこが発想の焦点でなければならない。改めて、そう痛感した。
浜矩子氏は1952年生まれである。私と同い年である。
国家、国家、国家と連呼する人や文章は、まともに信じない方がいい。

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