2013年11月18日月曜日

古池や蛙飛び込む水の音

   辻原登氏の「熱い読書・冷たい読書」という変なタイトルの本を購入して早速読む。その中で、長谷川櫂氏の「句集 松島」の本の紹介をしている。芭蕉の「奥の細道」を、今までにない読み方をしている。以下、それに対しての辻原氏の評論である。
   古池や蛙飛びこむ水の音
   誰もが知っている芭蕉の句だが、いったいこの句のどこがすごいのだろうか。蕉風開眼の一旬、つまり俳諧に革命をもたらした名句として読まれ、この句が生まれて三百二十余年たっても、その評 価はゆるがない。
   しかし、正岡子規は、「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、また他に意義たるものなし」(「古池の句の弁」)と言い放つ。
   古池に蛙が飛びこんで、水の音がした。そこで、はっとそれまでの閑けさに気がついて、驚いた。まあそんなところか。
しかし、現代俳人の長谷川櫂が最近、興味深い読みを示した(古池に蛙は飛びこんだかと)。
   芭蕉が古池の句を詠んだのは貞享三年(一六八六年)春、深川の芭蕉庵で催された蛙の句合わせにおいてらしい。
   ここで、芭蕉はまず、蛙が水に飛びこむ音を聞いて、「蛙飛びこむ水のおと」と中下旬をつくった。さて、上五には何を置くか。
   其角が「山吹や」はどうかといった。それは、古今集の「かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を」を踏まえたもので、古来、蛙とくればその鳴き声であったところを、水に飛びこむとぼけた昔をぶつけることで、伝統和歌をからかおうとしたわけだ。俳語の効用のひとつである。
   しかし、芭蕉は「山吹や」を択らず、「古池や」とした。
長谷川櫂の論の面白さはここからで、なぜ「古池に蛙飛びこむ水の音」でなく、「古池や」なのか。
   やは強い切れ字である。つまり上五と中下七五は切れている。断絶しているのだ。古池があって、そこに蛙が飛びこんで水音が上がる、それを聞いているという句ではないのだ。
   先に、芭蕉が、蛙が水に飛びこむ音を聞いて、あとから沈思黙考の末へ古池や、と置いたことを思い出してみよう。芭蕉は、蛙が飛びこむ音を聞いているが、古池をみているわけではない。どこにあるかも分からない。
   蛙も水の音も現実だが、古池は心に浮かんだどこにもない幻の池、夢の池、思い出の中の池、あるいは中国や日本の古典の中に描かれた池、つまり古い池なのだ。
   古池に蛙飛び込む水の音。こえならたしかに蛙は現実に古池にとびこんで、ポチャンと音をたてている。
   古池や蛙飛びこむ水の音。古池と蛙は別次元の世界に在る。蛙は現実の世界に、古池は想像の世界に。とすると、蛙は古池に飛びこめない。
   と、ここまで長谷川櫂の論をたどってきて、私は、それでも蛙は池にとびこんだと考える。蛙は現実の世界から、存在しない、幻の古池にとびこんだ。すると、水の音は、まるで死の世界に吸い込まれるように消えて、そこに広大無辺の閑けさの世界が生まれる。芭蕉はその閑けさに耳を傾けているのだ、と。
   その芭蕉が『おくのほそ道』の旅で、山形立石寺を訪ねて詠んだ句を思い出す。
   閑さや、岩にしみ入 蝉の声
この閑けさも、ただの閑けさでないことはいうまでもない。
   確かに、閑さやと蝉の声とは別の次元として捉えないと理解できない句である。
長谷川櫂、ただものではない。

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