2013年11月9日土曜日

分人

   平野啓一郎と聞いて大学在学中に芥川賞を受賞した小説家と、わかる人はかなりの本好きの人である。1975年生まれで、まだ38歳である。彼が「私とは何か」という本を書いた。一部紹介する。
    「本当の自分」幻想がはらむ問題
人間には、いくつもの顔がある。―― 私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で、自然と様々な自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行ってもオレはオレでは、面倒臭がられるだけで、コミュニケーションは成立しない。
   だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人(individual)」ではない。複数の「(分割可能な)分人dividual」である。
   人間が常に首尾一貫した、分けられない存在だとすると、現に色々な顔があるというその事実と矛盾する。それを解消させるには、自我(= 「本当の自分」)は一つだけで、あとは、表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないと、価値の序列をつける以外にない。
   しかし、この考え方は間違っている。
   理由その一。もしそう考えるなら、私たちは、誰とも「本当の自分」でコミュニケ-ションを図ることが出来なくなるからだ。すべての人間関係が、キャラ同士、仮面同士の化しかし合いになる。それは、他者と自分とを両方とも不当に貶める錯覚であり、実感からも遠い。
   理由その二。分人は、こちらが一方的に、こうだと決めて演じるものではなく、あくまでも相手との相互作用の中で生じる。キャラや仮面という比喩は、表面的というだけでなく、一旦主体的に決めてしまうと硬直的で、インタラクティヴでない印象を与える。
   しかし、実際に私が実家の祖母や友人との間にそれぞれ持っている分人は、長い時間をかけたコミニュニケ-ションの中で、喜怒哀楽様々な反応を交換した結果である。また関係性の中でも変化し得る。何年も経てば、出会った頃とは、お互いに口調も表情も変わっているだろう。それを一々、仮面を付け替えたとか、仮面が変容したとか説明するのは無理がある。
   理由その三。他者と接している様々な分人には実体があるが、「本当の自分」には、実体がないからだ。―― そう、それは結局、幻想にすぎない。
   私たちは、たとえどんな相手であろうと、その人との対人関係の中だけで、自分のすべての可能性を発揮することは出来ない。中学時代の私が、小説を読み、美に憧れたり、人間の生死について考えたりしていたことを、級友と共有出来なかったのは、その一例である。だからこそ、どこかに「本当の自分」があるはずだと考えようとする。しかし、実のところ、小説に共感している私もまた、その作品世界との相互作用の中で生じたもう一つ別の分人に過ぎない。決してそれこそが、唯一価値を持っている自分ではなく、学校での顔は、その自分によって演じられ、使い分けられているのではないのだ。
   分人はすべて、「本当の自分」である。
   私たちは、しかし、そう考えることが出来ず、唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。どこにも実体そそのかがないにも拘らず、それを知り、それを探さなければならないと四六時中そそのかされている。それが、「私」とは何か、という、アイデンティティの問いである。
   他者があっての自分、自分とはどう認識されるのかという、きわめて哲学的な命題を「分人」という言葉でわかりやすく説明しようとしている。
   よく、自分のゴルフができれば、自分の相撲ができれば、じぶんの・・・と言われることが多い。私は、自分の・・ができればという言葉が嫌いだ。その解がこの本の中にあるような気がした。

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