2014年12月24日水曜日

21世紀の資本


 日経に「21世紀の資本」がベストセラーになっている、パリ経済学校教授のトマ・ピケティー氏へのインタビュー記事が載っていた。一部興味ある部分を紹介する。
所得格差拡大に批判的ですが、経済成長には一定の格差は避けられない面もあります。
「確かに成長の持続にはインセンティブが必要で格差も生まれる。過去200年の成長と富の歴史を見ると、資本の収益は一国の成長率を上回る。労働収入より資産からの収入が伸びる状況だ。数年なら許容できるが、数十年続くと格差の拡大が社会基盤を揺るがす」
「日本に顕著だが(成長力の落ちた先進国では)若者の賃金の伸びが低い。第2次大戦後のベビーブーム世代と比べ資産を蓄積するのが非常に難しい。こうした歴史的状況において、中間層の労働収入への課税を少し減らし、高所得者に対する資産課税を拡大するのは合理的な考えだと思う。左発か右翼かという問題ではなく、歴史の進展に対応した税制のあり方の問題だ」
グローバル化と格差の関係をどう見ていますか。
「グローバル化そのものはいいことだ。経済が開放され、一段の成長をもたらした。格差拡大を放置する最大のリスクは、多くの人々がグローバル化が自身のためにならないと感じ、極端な国家主義(ナショナリズム)に向かってしまうことだ。欧州では極右勢力などが支持を伸ばしている。外国人労働者を排斥しようとし欧州連合(EU)執行部やドイツなどを非難する」
資産への課税強化で国際協調すべきだと提案していますが、非現実的との指摘もあります。
5年前にスイスの銀行の秘密主義が崩れると考えた人はどれほどいただろうか。しかし米政府がスイスの銀行に迫った結果、従来の慣習は打破され透明性が高まった。これは第一歩だ」
「たとえば、自由貿易協定を進めると同時に、国境を越えたお金のやりとりに関する情報も自動的に交換するような仕組みがつくれるのではないか。タックスヘイブン(租税回避地)に対しても対応がいる。国際協調が難しいことを何もしない言い訳にすべきではないと思う」
「新興国にとっても2つの意味かある。新興国は(金融の流れが不透明な現状のまま)資本流出が起きれば失うものの方が大きい。中国はロシアのような一部の特権階級にだけ富が集中するような国にならないよう細心の注意が必要だ。中国国内で得た(不正な)利益でロンドンやパリの不動産を買う動きもお金の流れが透明になれば防げる。グローバル化の拡大は歓迎するが透明性を高めるべきだ」
先進国内で格差拡大を嘆く声が出る一万、新興国が成長力を高め世界全体では富が増え格差も縮小しているのでは。
「アジアやアフリカでは高成長は当面続くだろうが永続しない。歴史的に高成長は他の国に追いつこうとしているときか、日本や欧州のように戦後の再建時にしか起きない。1700年以降、世界の成長率は年平均1.8%で、人口は0.8%だ。成長率が低く見えるかもしれないが、生活水準を向上させるには十分だった」
過去200年以上の資料をもとに分析したものであるので、説得力がある。読んでみたいが少々高い。税込5940円。

2014年12月18日木曜日

粛々と


 月一回赤旗に連載されている大田直子氏の「気になる日本語」。今回は「ブレずに粛々と」である。本来ならばいい言葉なのであるが、使う人が良くないので悪い言葉のように思ってしまう。
好きだった言葉が、世間で急に多用され始めて嫌いになる、ということがけっこうあります。「癒やし」もそうですし、近年では「言葉を紡ぐ」が憎らしくなりかけています。
そんな小姑的字幕屋のムカつきアンテナに最近ひっかかるのが「粛々と」。国語辞典を引くと「静かに行動するさま、おごそかな様子」などとあって、たいへんに慎ましやかです。大声で憎悪を叫んだり、匿名で人をののしることも多い世の中、こうした熊度は好ましくさえ感じます。ところが、この言葉をよく用いるのは政治家や役人、大会社の大幹部。こうなるとニュアンスが変わってきます。
例えば先日、米軍基地の県内移転反対を訴える人が選挙で選ばれたとき、防衛省は「移転は粛々と進めていくだけです」というコメントを出しました。これを聞いて「ずるい!」と叫んだ字幕屋。「移転は進めます」だけだと傲慢な印象ですが、「粛々と」という言葉を差し挟むことでその印象が薄められます。他者(世論)を無視するためのブロック効果でしょうか。「うちらはまじめにルールに則って仕事してます。雑音()には耳を貸しません」という気持ちが見て取れます。
選挙で敗退した現職氏は、退任のわずか数日前に基地移転に関わる申請を承認しました。氏も心の中で「粛々と」とつぶやいていたのかもしれません。あるいは、「私はプレない人間なのだ」と?
周囲の声を雑音扱いして耳を貸さないという点では、まずい兆候が見えているのに「この道しかない!」と突き進むのをかっこいいと思っている人も、どこか勘違いしているのではないでしょうか。
人生でも、いろんな人の声に耳を傾けて、そのたびに揺れ動き、「どうしたらいいのだ!」と悩むのは、めんどくさいことかもしれませんが、絶対的な正解がない以上、引き返す勇気も必要です。
「政治やビジネスは複雑なんだよ。これだから素人は困る」と言われそうですが、素人の声を無視する者こそプロの皮を被ったド素人。私も「こんな字幕はダメ」という指摘にキレそうになるのをぐっとこらえて真摯に悩もうと思います(たまにキレてますが)(おおた・なおこ映画字幕翻訳者)
私達は使ってはいけない言葉、いや使う機会がない言葉ではある。

2014年12月16日火曜日

相補性


 福岡伸一 芸術と科学のあいだ
 なくしたピースの請求法に感心
 私の学生時代の知人にジグソーパズルの愛好者がいた。大判のパズルをーそれはたぶん数百とか数千ものピースからなっていたと思われるがー飽きもせず長い時間をかけて完成させる。彼の言い分がふるっていた。「あと一個、というところまで作っておいて、最後のピースは彼女に入れさせてあげるんだ」。当時の彼に、彼女がほんとうにいたとしても、彼女はそのプレゼントをどれほど喜んだことだろう。今となってはよくわからない。
 ところで、こんなジグソーパズルのフアンにとって困ったことが起こりうる。一生懸命作り上げたパズル、いよいよ完成という段になって、ピースがひとつ足りない。そもそもピースは小さい。どんな隙間にでも入り込みうる。部屋中を必死に探しまわってもどうしても見つからない・・・このような悪夢のような事態は実際、しばしば発生することのようだ。
その証拠に、ジーグソーパズルメーカー、やのまん(東京・台東)のホームペー
ジにこんなサービスの告知を見つけた。
「弊社では無料で紛失したピースを提供させて頂いております」
でも、いったいどのようにして無くなってしまったものを相手に知らせることができるのか。次の一文がふるっている。「請求ピースのまわりを囲む8つのピースをはずして、崩れないようラップ等でくるむ」(ラップ等で、というところがまたいい)私はこれを読んで心底感心した。生物学の根幹を統べる原理がここにあますところなく表現されている。生命を構成る要素は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する。自分の中に自分はいない。自分の外で自分が決まる。相補性である。ラップに包まれた8つのピースの中央におさまった真新しいピースがそっと返送されてきたら・・このときこそ彼女はほんとうの至福を感じるだろう。
 
  私の娘も、小さい時、「ジグソーパズル」が好きで根気よく仕上げていた。今も居間に何個か飾ってある。よく、こんなものを仕上げる事ができるなと感心したものだ。ある時、作成途中の物を足で引っ掛けてばらばらにしてしまった。その時は、泣いて抗議をされた。
 
 
 
 

2014年12月11日木曜日

三た雨乞い論法


「二木立氏の医療経済・政策学関連ニューズレター」より、一部紹介する。
服部茂幸(福井県立大学経済学部教授、理論経済学)
『雨乞いは雨を必ず降らすことができる』というジョークがある。『なぜならば、雨が降るまで続けるからだ』。これを異次元緩和に置き換えると、『異次元緩和は必ず日本経済を復活させることができる。なぜならば、日本経済が復活するまで続けるからだ』となる」(『アベノミクスの終焉』岩波新書,2014,vi)二木コメント-これを読んで、次の「三た雨乞い論法」を思い出しました。 
浜六郎(医師。長年にわたり医薬品の安全で適正な使用のための研究と情報活動に取り組んでいる)
『三た雨乞い論法』というのは、それまであった『三た論法』という表現と、『雨乞い論法』という表現を、日本での臨床薬理学の草分け的な存在の一人である佐久間昭氏が合成して使用した独特の表現である。『三た論法』というのは、薬を『つかった』ら、患者が『治った』、だからこの薬は『効いた』のだ、というものである。『つかった』『治った』『効いた』と3回『た』が出てくるから『三た』である。
『雨乞い論法』というのは、『患者が自然の経過や標準的な治療法で治ったのを試験薬が効いた』とする論法をさす。ちょうど、自然現象で降った雨を、『雨乞い』が『効いた』からといいくるめる論法と同じである。雨が降らないで人が困っているときは、すでに相当長期間雨が降らない状態にあるときだ。そこで『雨乞い』をし続けると、ある程度の期間が経てばかならず雨が降ってくる。人は『ああ、ありがたい、ありがたい』と思う。
(中略)雨乞いは絶対に効くのだ。なぜなら、雨が降り続けるまで『雨乞い』は続けられるからだ(『薬害はなぜなくならないか』日本評論社,1996,27-28)
確かに、安倍首相は「アベノミクス」が成功するまでやるつもりであろう。

2014年12月8日月曜日

子どもに貧困を押しつける国・日本


「子どもに貧困を押しつける国・日本」(光文社新書)山野良一著を読む。その中で、家族の誰かの犠牲で成り立っている子供の教育、教育費用をどうしたらいいのか。ポイント部分を紹介する。
貧困問題と社会連帯意識
お気づきのとおり、こうした「カゾクチュー」な親たちを促進してきたのが、ここまで述べてきた家族依存的な日本の教育・子育て制度や、資源配分のあり方だったと私は考えています。「家制度」という歴史的特質を引きずりながら、高い教育費の親負担が当然視されることなどを経て、気がつかないうちに私たちの思考に「カゾクチユー」な考え方が埋め込まれてしまったのではないでしょうか。
さらに言えば、80年代以降に進行してきた貧困や格差の拡大が、社会全体の共同体意識や連帯意識を失わせてきていることも世界的によく指摘されている点です。「白熱教室」で人気を博した政治哲学者のマイケル・サンデルは、あらゆるものが売買されるような市場至上主義がその流れを促進し、結果として「民主的な市民生活のよりどころである連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる」としています(サンデル2010)。日本で「無縁社会」という言葉が注目されたのも、そのことと関連があるでしょう。貧困や不平等の拡大によって、社会全体のつながりが失われていくのです。
しかし、これ以上「カゾクチュー」な考え方も、社会的な連帯感やつながり意識の破壊も進行させてはならないと私は考えます。貧困問題を考える時、単に所得や金銭的な欠乏が深刻化してきたという側面だけではなく、こうした社会全体のあり方が蝕まれている面を見過ごしてはならないのです。
もちろん、そのためには本書で述べてきたような、家族依存的な資源配分のあり方を再検討しなければならないだろうと思います。資源論を無視して、理念を変化させるということはできないでしょう。
しかし、それは経済的に困窮している家族だけを特別扱いし優遇すればいいというものではありません。簡単に言えば、できるだけ教育や育児にお金がかからない社会を作るということだと思います。それは、経済的に困窮している家族や子どもだけでなく、中流以上の家族やこどもにとっても、優しいユニバーサルな社会です。そうしたユニバーサルこそが、社会に対する不信感を緩め、子育てという営みが本来持つ「頼り頼られる」連帯意識につながるのではないでしょうか。そうした連帯意識のもとでは、親たちも自分の子どもが得た能力や技術を、社会に還元させるべきだと思えるのではないでしょうか。
子どもは社会全体の宝物という考えでいかなければ、解決策は見つからないということだ。

2014年12月5日金曜日

消費税


共済会だよりに連載されている「アメリカは日本の消費税を許さない」(大阪経済大学客員教授 岩本沙弓)の最終回は「社会的共通資本を蝕む消費税は廃止すべき」といタイトルである。興味ある部分を紹介する。
また、以下のような指摘も米公文書にありました。非常に示唆的な内容なので一部の訳をそのまま抽出します。
「法人税の一部(あるいは全部)の代替として付加価値税・消費税が資力の有効利用になるとする主張は、法人をより優先するだけでなく、農業や小売業のような自営業者を少数派に追いやることを暗にほのめかしている。(中略)米国の場合、こうした(大企業優先、その他を劣勢にする)移行を税制度の変更によって加速させる必要などあるのか、と疑問が投げ掛けられるのは当然である。利幅は薄くても農業や他の自営業は、企業で働くという環境に馴染まない(その理由はいくらでもある)人たちの重要な受け皿を提供しているのだ。」
社会全体の安定、経済の安定を考えれば大企業優位の政策ではなく、社会の受け皿として機能している中小零細企業、自営業、農業の役割について、たとえそれらの利幅が大企業に比べて薄かったとしても、重視すべきだというのです。だからこそ、特定大企業優位となる消費税・付加価値税は採用しない、というのが米国の結論でもあるわけです。
先日、日本を代表する経済学者であり、一人ひとりの人間が幸せになる経済とは何かをひたすら追求してきた字沢弘文東京大学名誉教授が他界されました。自然環境、社会的インフラ、医療・教育・農業などは社会的共通資本であって、市場競争に晒されるべきではない、という主張をされてきました。
日本の企業数の99.7%、従業員数7割を占める中小零細企業もまた社会的共通資本に近しいというのが米国の指摘ではないでしょうか。日本の社会的共通資本を蝕む消費税は廃止すべき、そうしたことを今こそ考える必要があるはずです。
資本主義の権化のようなアメリカの公文書に書かれている「消費税」に対する見方はしっかりしていると感じた。

2014年12月2日火曜日

論語


「論語」とは、今から約2500年も前の、中国の思想書である。孔子とその弟子たちの語録である。今回「全訳 論語」山田史生著を読む。その中の一遍を紹介する。
孔子日く、君子に侍するに三愆有り。言未だ之に及ばずして言う、之を操と謂う。言之に及びて言わざる、之を穏と謂う。末だ顔色を見ずして言う、之を瞽と謂う。
目上のひとに接するとき、やってはならない落ち度が三つある。語るべきじゃないのに語る。これは軽率。語るべきなのに語らない。これは陰険。相手の気持ちをおもんばからずに語る。これは無神経。
「語るべきじゃないのに語る」とは、相手がいまそれをしゃべろうとしているつてことを察していながら、ひょいと先回りしてしゃべってしまうこと。しゃべりたいという自分の都合で軽はずみにしゃべると、相手がしゃべろうとする出鼻をくじくことになる。こういう自己顕示欲の旺盛なタイプは嫌われる。
「語るべきなのに語らない」とは、訊かれてもムッツリとだまったまま自分からはしゃべろうとしないこと。口下手なのではない。しゃべったほうが相手のためによいと承知していながら、伏せておくほうが得策だとおもったら、腹黒くだまっているのである。こういうズル賢いタイプは、しばしば謙虚な人柄に見えたりするから、よけい腹が立つ。
「相手の気持ちをおもんばからすに語る」とは、相手の気持ちを掛酌せず、その場の雰囲気にも頓着せず、しゃべり放題にしゃべりまくること。まわりの状況が見えていないのである。オッチョコチョイではあるが、まだ罪は軽いとおもう(自分がそうだからだろうか)。語るべきじゃないのに語るのは、節義に反する。語るべきなのに語らないのは、信義に反する。そういう当為とおかまいなしに語りまくるのは、たんなるバカである。
紀元前の論語の中身はそのまま現代にも通じる。「相手の気持ちをおもんばからずに語る」とは、どこかの政治家のことではと思ってしまう。

2014年11月29日土曜日

福岡ハカセの本棚


生物学者 福岡伸一氏の「福岡ハカセの本棚」を読む。思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊を紹介している。その中で須賀敦子氏のエッセイ「地図のない道」の中の一部を紹介する。
幾何学の美をもつ文体
小説ではありませんが、非常に構築的な作品を残した作家として、須賀敦子について触れたいと思います。須賀はこれまで紹介してきた作品とはまったく毛色の違う、しかし、やはり精微な地図を思わせるたたずまいの作品で、私が長く傾倒してきた人です。
いつの頃からか、彼女を知った私は、手元に著作を集めで繰り返し読むようになりました。その魅力は、なにより幾何学的な美をもった文体にあります。柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が秩序をもって配置されている。その秩序が織りなす美しい文様。長くイタリア文学の翻訳に携わった須賀がエッセイを書き始めたのは、60歳を過ぎてからだったといいます。
須賀の随筆は、まるで物語をつくるように練り上げられた土台の上に築かれています。ストーリーを支える柱が整然と配置され、あるいは、二つの文章があたかも2本の柱のように対峙する。彼女も、私と同じように建築が好きだったのではないでしょうか。
あるとき須賀はヴェネツィアを旅し、インクラビり(治る見込みのない病)という地名を知ってたじろがされます。
「どこの国語や方言にも、国や地方の歴史が、遺伝子をぎつしり組み込んで流れる血液みたいに、表面からはわからない語感のすみずみにまで浸透していることを、ふだん私たちは忘れていることが多いし、語学の教科書にもそれは書いてない。だから、よその国やよその都市を訪れたとき、なにかの拍子にそれに気づいてびっくりする。その土地では古くからいい慣わされていて、だれもそれについてなんとも思わない場所の名などが、旅行者にはひどく奇妙にひびくことがあるのも、そのためだ。小さいときからそれを聞き慣れている人たちにとっては、まったくなんでもない言葉や表現なのに、慣れないよそ者は目をむいて立ち止まる。」
この一文は最後の著作として残された『地図のない道』から引用したものです(「ザッテレの河岸で」)。須賀作品の中で私が最も愛する文章です。そこには、他の作品と同じように、彼女の人生の長い時間、認識の旅路が美しく結晶しています。私の『世界は分けてもわからない』に、かつて須賀が立ちつくしたこの同じ場所を訪れたときの物語を記しまた。私はその文章が描き出す精微な地図を確かめに、彼女がたびたび訪れたというヴエネツィアにまで旅をしてしまったのです。
須賀敦子の作品は、何度読んでも新しい感動と発見をもたらしてくれます。次々に出版される新刊本を、流れのまま手に取ることも読書のあり方だと思います。しかし、私自身は、自分が本当に好きな作家の著作を繰り返し読むことに最大の喜びを感じるのです。
私自身も外国へよく行くが、同じ場所へ何度も行く。日常会話が全くわからないことで、かえっていろんな事に興味がわくのである。須賀敦子の作品を読んでみたくなった。

2014年11月27日木曜日

ヘイトスピーチ


毎日新聞海外からの発言を紹介
ヘイトスピーチの法規制
パトリック・ソーンベリー元国連人種差別撤廃委員、英キール大名誉教授
「人種差別撤廃条約」が国連総会で採択されて来年で50年になる。民族的少数者ら社会的少数派への憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」を法律で禁じるよう求める条約だ。スピーチ(言論)という言葉が少し誤解を与えているようだが、ヘイトスピーチの真の問題は、語られる言葉そのものではない。差別の扇動が社会にもたらす影響にこそ危険がある。ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺もそうだ。人種主義的な扇動がジェノサイド(大虐殺)をもたらした。こうした例が歴史にある。
だから、ヘイトスピーチの禁止は単なる「言論の自由」の規制ではない。表現の自由とのバランスは大事だが、ヘイトスピーチが社会的少数派から自由な言論を奪ってしまうという実態がある。多数派は、社会における力関係を利用して少数派を一方的に傷つけ、沈黙させるからだ。
どんな国でも完全な表現の自由は存在しない。タブーというものがある。児童ポルノであれ、ジェノサイド扇動であれ、社会の調和を乱す表現にはおのずと線引きがなされてしかるべきだ。
その際、あいまいな規定で規制するのは問題だ。明確かつ適切な境界線を引く努力を続けなければならない。
差別的な表現でも、聞いた人が気分を害するだけなら処罰の対象とする必要はない。だが、人間の尊厳を踏みにじったり、(特定の人種や民族グループについて) 「社会に居場所がない」などと公言したりするのは許されない。法規制の対象とするかどうかの判断は、そうした言動がどのような文脈でなされたかが大事だと強調したい。その国や地域における過去の歴史も判断の上で重要な要素となる。
人種差別を禁じる法を制定し、刑法や民法を組み合わせた法的枠組みを作る必要がある。刑法で処罰するのは最も深刻な場合に限るべきだ。
法規制が逆に社会的少数派の抑圧につながったり、正当な抗議の制限に使われたりするのも防がねばならない。そのためには、実際に法を運用する裁判官や警察への教育が非常に重要となる。国際的な人権基準を含む教育はメディアにも必要で、市民が言論によってヘイトスピーチに対抗するのも大事だ。法律を作れば問題が解決されるわけではない。そこから差別をなくす取り組みが始まるのだ。
ヘイトスピーチに対してどう対応していいのかと考えていた時、この記事に出会った。ヘイトスピーチの禁止は単なる「言論の自由」の規制ではない。多数派が力関係を利用して少数派を一方的に傷つけ、沈黙させるからだに納得した。

2014年11月25日火曜日

現代秀歌 あとがき


永田和宏氏の「現代秀歌」(岩波新書)を読む。氏は細胞生物学者であり、歌人である。妻は4年程前に亡くなった歌人「河野裕子」氏である。彼が、今後100年は読まれて欲しいと願う、現代の秀歌100首を載せている。今回はそのあとがきの一部を紹介する。
また、こうして択んできてつくづく感じるのは、短歌という詩形式、その作品は、私たちの生活、あるいは人生と、実に密接な距離をもって作られているということでもあった。すなわち、歌が作者の「時間」に沿っているのである。人生という時間軸に沿って、さまざまの経験をする。そのそれぞれの(時)に、それぞれの体験が詠われる。そんな作者の時間にピン止めされた作品は、やはりあとから読み直しても魅力的に映るものである。これは私の持論でもあるが、私が歌を作るとき、もっとも大切に考えているのは、「自分の時間にだけは嘘をつかい」という一点である。
どのような歌があってもいいし、どのような虚構が詠われていてもいい。しかし、五句三十一音の短歌として表現された言葉が、作者の(現在)を映していないならば、読者としてその作品につきあう意欲がいっぺんに希薄にならざるを得ない。たとえそれが回想の歌であり、詠われている「内容」が過去のものであっても、その「過去」を詠っている作者の(現在)が作品のなかに感じられなければ、歌としての魅力はないと私は感じる。
この点については、本当はもっとスペースを割いて論じなければ誤解を招きそうであるが、ここでは私の信念くらいにとっておいていただきたい。
もう一点だけ、現代の短歌について私が感じていることを述べておきたい。それは、歌は「訴う」起源を有するという説ついてである。これがどれほどに確立された説であるかはここでは問題にしないが、本書の冒頭でも述べたように、歌で自らの考え、感じたこと、思い、意見を伝えるというその特性については、もっともっと大切に考えられていいと私は思っている。
私は現在、歌壇のいくつかの賞に関係し、審査委員を引き受けているが、多くの応募作について、作者が何を誰に伝えようとしているのかが希薄な作品が、特に若い世代に多くなっていることに危倶の念を抱いている。もっと自分の伝えたいことをしっかりと相手に伝えたいというスタンスでの作歌がなされてよい。
作者の現在を、どのように謳う、訴えるかがないと心に響かないということは、歌だけの話ではない。相手に伝えたいというスタンス。これがどんなことでも大事だと思う。

2014年11月21日金曜日

モンゴル


毎日新聞の「発言」(海外から)を紹介。
北朝鮮の核には包括策で
ジャルガルサイハン・エンクサイハン モンゴル特任大使
モンゴルは冷戦終結後、市場経済を採用し非同盟政策をとるようになった。だが、社会主義時代の旧友を見捨てることはしていない。北朝鮮はそんな国の一つだ。多くの分野で関係強化を図り、地域の核安全保障の問題でも定期的に意見交換している。
北朝鮮は核兵器を開発し保有する理由について、米国と西側諸国が北朝鮮の政治体制に敵意を抱き、転覆させようとしているからとか、米国が直接・間接的に核兵器で威嚇するから自国防衛に必要だと説明する。他国を攻撃する意図はなく、抑止力なのだと。
我々は、そのような問題は政治的に解決されるべきだと考えている。軍事的に解決しうるのは問題の一面でしかなく、軍備増強は持続できない。平和共存のためには、課題をオープンに話し合い、妥協点を探ることが必要だ。北朝鮮の核兵器はモンゴルに対して向けられてはいないが、いかなる核も世界中への脅威となる。核大国の中露に挟まれたモンゴルはこれまで、核兵器の非合法化や廃絶を支持してきた。
我が国は独自に非核兵器地帯を宣言し、その地位を核保有5カ国の米英仏霧中が尊重すると確約してくれた。北朝鮮にもこうしたモンゴルの非核政策を伝えてきた。だが、北朝鮮はモンゴルとは状況が異なると考えている。
北朝鮮と日米中韓露が核問題などを話し合う6カ国協議・は、2008年を最後に開かれていない。残念ながら現時点では「やるべきことをしていない」と互いに非難し合うだけで、解決に向けた政治的意志が十分でない。
6カ国協議を再開させ、北朝鮮の非核化を進めるには、モートン・ハルペリン元米大統領特別補佐官が提唱した、6項目の包括的アプローチが理にかなっている。北東アジア非核兵器地帯の創設をはじめ、朝鮮戦争の戦争状態の終結やエネルギー支援などが含まれ、お互いに利益となる内容だ。
交渉は簡単ではない。だからこそモンゴルのエルべグドルジ大統領は昨年9月、国連総会の核軍縮ハイレベル会合で北東アジア非核兵器地帯の創設に向け、非公式な場で可能性を探ることを提言した。日本も唯一の戦争被爆国として、重要な役割を果たすことができる。来年被爆70年を迎えるにあたり、北東アジア非核兵器地帯の可否について検討を始めてはどうだろうか。
モンゴルと言えば、ほとんど「大相撲」の横綱の出身地ということしか浮かばないかもしれない。モンゴルの大統領の提案はまさにその通り。

2014年11月19日水曜日

メッキ


毎日新聞の小さな記事に、同志社大学教授、浜矩子氏の「メッキはがれたアベノミクス」という囲み記事が載っていた。今回の「解散・総選挙」の実態を簡潔に示しているので紹介する。
景気は悲惨な状況だ。消費や設備投資といった内需が低調なうえ、円安効果は輸出額よりも輸入額を増やす方向に働いて外需も伸び悩んでいるからだ。消費税増税だけのせいだろうか。アベノミクスのメッキがはがれ、本当の実態が見えてきたのではないか。
アベノミクスの問題点は、ご祝儀相場のように市場をあおり、株価を上げれば、皆が元気になると考えたこと、そして「円安が進めば日本経済は成長する」という時代錯誤の考えで政策を進めたことにある。これらの問題点の結実が今の景気だ。実体経済がここまで追い込まれる中、消費税を再増税してはつじつまが合わない。財政再建の観点からは禍根を残すが、増税の延期はアベノミクスの当然の帰結と言える。
でも、アベノミクスの失敗と衆院解散・総選挙との間に脈絡はない。将棋で負けそうになったからといって、将棋盤をひっくり返すようなものだ。「野党の準備の整っていない今なら選挙に勝てる」との安倍晋三首相の思いしか見えない。本来であれば国会で説明をし、論戦を経て仕切り直しの方向を示すべきなのに、衆院選で目くらましをしようとしている。国会論戦という民主主義のプロセスを無視し、国民を愚弄する行為だと思う。
日本経済が抱えている一番大きな問題は、豊かさの中の貧困問題だろう。富が偏在しているから中低所得者の財布のひもが締まり、消費が盛り上がらない。今やるべきことは、富者をますます富ませる株高・円安推進策ではない。弱者救済の観点を前面に出した、貧困世帯や低所得者の生活支援だ。
消費税増税も安易に先送りするだけでなく、その間、軽減税率導入といった有効な低所得者対策を考えてほしい。同時に、高額商品に「加重税率」をかけるなど、お金持ちから税金をとれるようにする努力も忘れてはならない。
 まさに、だだをこねた子供が、「こんなはずじゃない!」と言って、将棋盤をひっくり返すようなものだ。

2014年11月12日水曜日

自立とは


二木立氏の「ニューズレター」の中に、何度か紹介している「私の好きな名言・警句」がある。今回はその中から鷲田精一(哲学者)氏の言葉の所を紹介。
鷲田清一(哲学者)
「自立すれば自分が好きになるというのは嘘です。というか、自分をふり返ると嫌なところばかり目につくのが常で、自分が好きな人などめったにいるものではありません。自立している、つまり大人であるというのは、自分に自信をもっているということでもありません。
自立というのは、自分の今がどれだけ多くの人に支えられてあるかを熟知しているということです。そしてだれかが困窮していれば、自分のことは後回しにしても、まずはその人の支えになろうとして動く、そんな用意があるということです。
どうしたら自分が好きになれるかなどとぐずぐず考える自分は放っておいて、どうしたら困っている人の役に立てるかと問うことからやり直してください」「読売新聞」2014920日朝刊、「人生案内」20代後半の男子大学院生で「温室育ちで育ったボンボン」から「どうしたらもっと今の自分を好きになり、もっと自立した人間になれるのか」と相談されて、こう回答えた。
二木コメント-痛快な回答であると同時に、「自立」についての深い理解が含まれていると思いました。
私は、「自分のいいとこ探し」とか「自分探し」ということが嫌いである。鷲田氏は私が思っていることと同じことを、哲学者らしい言葉で言っている。

2014年11月11日火曜日

杖ことば


 五木寛之氏の「杖ことば」を読む。ことわざ力を磨くと逆境に強くなるとして「ことわざ」に関連して五木氏の考えが述べられている。
 その中で、「一寸先は闇」というタイトルの一部分を紹介する。
一度は会っておきたい人もいます。片づけておかねばならぬ仕事もあります。後事を托する人も探さねばなりません。
そんなことより、もっと急がねばならないのは、部屋の整理でしょう。手紙類をシュレッダーにかける。不要な本を売りはらう。捨てるべきものが山ほどあって、その選択に悩むはずです。
それよりも何よりも、自分の一生を静かにふり返って、一応の納得をしなければなりません。「見るべきものは、すでに見つ」と、堂々と言いきれる人は幸せです。
もし、 あと三年でこの世を去ると、はっきりわかったならば、突然、人生や世の中がこれまでとちがって見えてくるはずです。
午後の日ざし、葉をゆらす風、人びとのざわめき、指先の感触、一分一秒の時間の流れ。
それらのすべてが、くっきりと、深く体に感じられるのではありますまいか。しかし、私たちは自分の残り時間を知ることができない。いつまで生き、いつ死ぬかをはっきりと確認することも不可能です。
人は老い、やがて病み、そして必ず死ぬ。
それはわかっています。人間はオギヤアと生まれた瞬間から、すでに「死」のキャリアなのです。HIVはときに発症せずにすむこともあるそうですが、 「死」は百パーセント発症します。
世の中は当てにならないことばかりです。その中でたった一つ、絶対に確かなものがあります。民族にも、時代にも、すべてに関係なく百パーセント確実なこと、それは「人は死ぬ」という真実です。
「死」といっても、なんとなく自分には関係がないような気がしています。頭では理解していてもそれほど身近なこととは思えません。
最近、そのことがさらに進んできているようです。それは「目に見える死」が、きわめて少なくなってきたことに原因があるのではないでしょうか。
私たちの子供の頃は、人は家庭で死ぬものでした。親族や友人、知人が枕元にあつまり、すすり泣きのもれる中で死が訪れました。私も母の死に水をとった記憶があります。さらに死後、タライに湯を張って、死者の体を清めることもしました。湯の中にひたされ、光の屈折のせいで、母の体は折れ曲がったように、いっそう小さく見えたものでした。
そんなセレモニーを体験すると、死が現実味をおびてきます。が、今は九十パーセント近くの人が、病院で死を迎えるといいます。
死後の処理も、子供たちをまじえずに業者がテキパキすすめてくれます。若い人たちだけでなく、私たち高齢者までが「死」に対して距離感をおぼえるようになってきました。あと三カ月の命、と、はっきり自分の寿命を知ることができたら、どれほど楽だろうと思います。
しかし、人に天寿はあっても、それを知ることは不可能です。きょう一日、明日一日かくごと覚悟して生きるしかないのでしょう。老少不定、 などと言う。一寸先は闇、と言いながら、実際には私たちは明日がいつまでも続きそうな錯覚の中で生きているのです。
しかし、明日が来るのか、来ないのか。それは誰にもわかりません。ならば、 「一寸先は闇」と肝に銘じて生きのびていく他ないのです。
私達は、最近おおきな出来事、地震、台風等で多くの人がなくなるのを経験した。一日、一日を覚悟して生きていきたい。

2014年11月7日金曜日

じゅうぶん豊かで、まずしい社会


日経で「じゅうぶん豊かで、まずしい社会」というタイトル本が紹介されている。著者はケインズ研究で知られる英国のスキデルスキー親子である。紹介者は東京大学教授の福田慎一氏である。概略紹介する。
本書は、ケインズの研究で知られる著者たちが、資本主義における金銭的食欲に警鐘を鳴らし、よい暮らし、よい人生を実現するには何が必要なのかを探求したものである。議論の出発点が、ケインズが1930年に発表した「孫の世代の経済的可能性」で描いた世界にある。あまり知られていないこの小論文でケインズは、持続的な技術の進歩によって金銭的な必要性に煩われない社会がやがて生まれると予測した。
しかし、ケインズの成長予測が的確であった一方で、今日、多くの人々はなお当時と同じくらいがむしゃらに働いている。著者たちはこれを悪弊と呼び、ケインズが予測した理想、社会がなぜ実現しないのかを説く。
今日の資本主義が結果的に所得の不平等を生み出すと指摘している点で、本書はトマ・ピケティ氏の『21世紀の資本論』と共通点がある。ただ、同書が膨大なデータに基づいて富が集中している世界の現状を客観的に描くのとは対照的に、本書は人々の飽くなき「金銭的貪欲」が格差拡大を生み出すことを、先哲の言葉を引用しながら観念的に訴えていく。
著者たちにとってみれば、本来は「満ち足りた世界」であるはずの先進国で「金銭的貪欲」が追求されることは、社会的な弱者だけでなく、金融街で桁外れの高額報酬を得ている人々にとっても不幸ということになる。現代社会には、お金には換えられない健康、安定、尊敬、人格、自然との調和、友情、余暇という7つの基本価値がある。この基本価値を持つことこそが、豊かな社会でのよい暮らしにつながるといつのが、著者たちの信念といえる。
ケインズが指摘したように、経済が発展途上の段階では、「人々の金もうけへの本能や金銭欲への絶え間ない刺激」が資本主義を支える。貧しい国にとって、物質的な成長は豊かさの実現につながり、それに寄与する資本主義の役割は重要となる。ただ、経済が十分に豊かになれば、成長への動機は社会的に容認されなくなり、資本主義は富の創造という任務を終える。そこでは、無限の欲望を満足させるために希少な資源を使うことは「目的のない合目的行動」にすぎない。 
本書で展開されるこれらの議論は、自由放任を信奉する市場原理主義とは相いれないかもしれない。評者も違和感がなかったわけではない。ただ、21世紀の資本主義のあり方が大きく問われている今日、本書が議論のあり方に大きな一石を投じたことだけは間違いない。
トマ・ピケティー氏の「21世紀の資本論」といい、本書といい、今発売される理由は、今ほど資本主義による貧しさが顕著になっている時代はないということからきていると考える。

2014年11月4日火曜日

スピーチ


「ブックオフ」で税別100円の本を購入した。定価は税別933円の本である。本の名は「大人の流儀」著者:伊集院静2011年発売である。その中に結婚式でのスピーチの事が書いてあったので紹介する。
大人が結婚式で言うべきこと
結婚式に招待されるというのは喜ばしいことであるが、時に厄介な場所に行かぬばならないという気分がするらしい。
服装はどうするか。祝儀はいくら包むか。もしスピーチでも指名されるようならどうしたらよいか・・・。めでたい席であるのに頭をかかえる人も多いと聞いた。招待の打診がまず入ったら、これは断る類のものっではない。
ありがとうございますと返答すべきだ。(但し、急に出席を望まれた時は断ってよろしい。仕事が優先で、そう返答して怒る人はいない)
服装は礼服を持たねば、普段のスーツでネクタイ(ネクタイをしない主義の人は必要ない)。まあ身奇麗にしておけばいい。
祝儀は相場があるから招待側の地位、年齢、自分との関係で必要以上は包まない。これが大切だ。よく披露宴の食事、ホテルのフルコースの値段と引出物の値段を合わせて計算するなんてこと言う人がいるが、そんな面倒臭い話があるはずはなく、料理も引き出物も相手が勝手に選んだものだから気にすることではない。
それで恥をかいたという話は一度も聞いたことがない。近頃の結婚式は見栄が七分で、その見栄にこちらが合わせる必要はさらさらない。
スピーチを依頼されたら、これも断らない。気の利いたスピーチなど言わない方がいい。一番イケナイのは延々と話すスピーチだ。ともかく短いのが肝心。「おめでとう。こんな嬉しいことはありません。おしあわせに」これでよろしい。
たとえ内心で『何がおめでとうだ。あんな生娘を貰いやがってこんな口惜しいことはない。地獄に堕ちろ』と思っていても、ただただ笑っておく。
今まで出席した結婚式でいいスピーチだなと思ったのはいずれも作家で、売れっ子カメラマンの宮津正明君の結婚式で北方謙三氏のスピーチが良かった。ウィットに富んでいて、声も大きく、オチもあった。内容ははっきり覚えていないがさすがだった。ともかく短かい言葉で皆が柏手した。その時も他の挨拶が長かった。このように結婚式のスピーチは長いのは野暮だ。
私も立場上、何回も主賓のスピーチを頼まれているが、心がけているのは「短く」である。余分は事は言わないことだ。

2014年10月31日金曜日

11月1日


111日は「本格焼酎・泡盛」の日だそうだ。沖縄に行ったら、必ず泡盛を飲むし、土産に買ってくる。新聞広告に記念日特集として焼酎のことが書かれていたので紹介する。
麦焼酎を育んだ風土と文化
歴史の島に伝わる伝統の味 浪漫あふれる壱岐焼酎
玄界沖にある壱岐は麦焼酎発祥の地といわれる。古くから中国・朝鮮半島との交易路にあたる壱岐には、焼酎文化を育む豊かな恵みと風土があった。良質な地下水と広い穀倉地。神道発祥の地といわれるだけに神社も多く、神事に欠かせないどぶろく文化が広く根付いていた。そんな壱岐に大陸から蒸留技術が伝えられたのは15世紀初頭のこと。この蒸留技術と島のどぶろく文化が出合い、麦焼酎が誕生する。
では、なぜ麦焼酎だったのか。壱岐では早くから農耕文化が栄え米も麦も豊富に取れた。米には命を育む栄養素があり甘みもある。しかし、米への課税は厳しく、島民の手元にはほとんど残らなかった。神へは貴重な米で造った清酒を神酒としてささげるが、庶民が飲む焼酎を米だけで造るのはぜいたく過ぎる。そこで、先人たちは麦を主原料にし、せめて麹だけでも米を使おうと考え、試行錯誤の結果、大麦3分の2、米麹3分の1という黄金比率にたどり着いた。この原料配分こそ、壱岐焼酎最大の特徴でもある。
「原料配分は同じでも、蔵や杜氏のくせ、麹の種類、水などいろいろなものの結集が、その蔵の焼酎です。焼酎のラベルには造り手の思いが凝縮されています。食品や化粧品を買う時のように、焼酎もぜひラベルを見て買っていただきたいですね」と、蔵元の山内賢明さん。
明治の初めに50軒あった蔵は現在7軒。時代の淘汰を経て選ばれた壱岐の7蔵は、舌の肥えた島民が納得する焼酎を造れば世界にも通じると、麦焼酎発祥の地としての誇りと伝統を守りながら、新たな挑戦を続けている。
壱岐の麦焼酎はよく飲むが、なぜ壱岐に麦焼酎なのかがよくわかった。宣伝広告も勉強になることがある。
以下、なぜ111日を焼酎、泡盛の日としたかの説明をネットから調査)
昭和62年9月、日本酒造組合中央会は11月1日を「本格焼酎&泡盛の日」に制定しました。毎年8~9月頃仕込みが始まり、その年の「本格焼酎ヌーボー」すなわち縁起のよい新酒が飲めるようになるのが11月1日前後だということから、その日に決まりました。また全国の土地神様が出雲大社に集まるため留守になるので10月を神無月といいますが、11月1日は神様がお国へ帰るめでたい日に当たり、本格焼酎が毎年新しい芽を出す節日としてふさわしいといえます。この日が「いい月いい日」と読めるのも偶然ではないような気がします。

2014年10月29日水曜日

腎臓移植


以前にも紹介したが、日経の連載小説「禁断のスカルペル」から、なまなましい所を紹介する。
じっさい、腎臓をやり取りする負担はドナーもレシピエントも、当人たちの思っている以上のものがある。
だから無償提供が定められている生体腎移植であっても、補償の心理が働く。兄弟間の移植の場合、内々で親から譲られた山一つ分の権利が移動していたいなどという話を耳にすることもある。むろん冗談めかした会話の中でだが・・・
いずれにしても現実は露骨で身も蓋もない。生体腎移植が叶わず、ネットワークで献腎移植の順番を待っていたのでは間に合わない--となると、外国に行って移植を強行する者も出てくる。いわゆる移植ツーリズムである。移植にまつわる法律の緩いフィリピンや中国などに行って、腎臓をお金で買うのである。倫理的に非常に問題だ。
なにしろその腎臓は貧者から安価に提供されたものばかりでなく、処刑された犯罪者のものだったり、噂だが反政府的宗教団体を弾圧して、信者から摘出した臓器が使われることもあるという。
だがツーリズムの患者にとって、そんなことは関係ない。金にもの言わせて移植を強行する。東子たちの悩みは、そうやって外国で移植を受けた患者が、日本に帰ってきて事後の面倒をみてくれと迫ることだった。カルテもなし、いつ、どこで、どう手術し、どんな抑制剤を用いたかも不明。犯罪と関わっているかも知れぬのに、彼らは平気でその尻拭いを東子たちに求めるのだ。
腎臓移植については、様々な問題がある。まだまだ人工透析の需要は大きい。

2014年10月27日月曜日

最善説経済論


毎日新聞、鹿島茂の「引用句辞典」を久々に紹介する。今回はヴォルテールの「カンディード」と言う本から次の言葉を引用している。
「個々の不幸は全体の幸福を作り出す。それゆえに、個々の不幸が多いほど、全ては善なのだ」
いずれにしろ、私が最も恐れるのは、安倍首相が経済ブレーンの言葉に愚直に従うことである。というのも『カンディード』で主人公のカンディードが家庭教師のパングロスの最善説を無批判に信じたのと「信の構造」がよく似ているからだ。
パングロスは「すべては善であると主張した者たちは愚かなことを言ったものだ。すべては最善の状態にあると言うべきであった」と主張し、個々の不幸がどれほど目の前にあっても、いちいち目くじらを立てるべきではないと言う。なぜなら、「個々の不幸は全体の幸福をつくり出す」はずなのだから。
このパングロスの最善説は、新自由派経済学者たちによってたくみに作り替えられて、いまや世界経済の主流になりつつある。間接税を増税し、法人減税を実施すれば、たとえ一時的に格差拡大という「不幸」に見舞われるかもしれないが、最終的には、「個々の不幸」は国家全体の幸福を生みだし、ひいては、世界経済を好調の波に乗せるという議論である。こうした思考法は、ある意味、不都合な真実を見てもまったく動じないという点で「最強」であり、むしろ「個々の不.幸が多ければ多いほど」、「すべては最善」という自身の理論の確かさを信じてしまうのだ。
だから、リスボン大地震に遭遇したのを皮切りに、ありとあらゆる不幸に見舞われたカンディードがついに最善説とは「うまくいっていないのに、すべては善だと言い張る血迷った熱病さ」と悟ったとしても、あいかわらず、パングロスは「個々の不幸は全体の幸福をつくり出す」と言い張ってやまないのである。
まさに、安倍はブレーンからこの言葉を紹介され、素直に信じているのかもしれない。

2014年10月24日金曜日

気になる日本語


日刊紙「赤旗」に映画字幕翻訳者の太田直子氏が「気になる日本語」というエッセイを連載しているので紹介する。
現在、東京国際映画祭のロシア映画翻訳で悶絶中です。上映日まで2週間しかないのに、映像と台本が届いたばかり。おかげで私的な予定はすべてキャンセルしました。
ここで質問です。右の「私的」をいま何と読みましたか?「してき」と読んでくださいましたよね。「わたしてき」ではなく。これが近年、字幕屋の悩みのひとつです。
ずいぶん前から、「わたし的にはこう思う」とか「俺的には無理」という言い方が増殖しています。「わたしはこう思う」「俺には無理」と言えばいいのに、「的」のクッションを条件反射的に挟む。
「お願いします」を「お願いできますか」と言い換える心理同様、よく言えば気遣い、悪く言えば責任逃れでしょうか。(「責任逃れです」と言い切れない私も同じ病)
国語辞典を見ると「的」は「そのものではないが、それに似た性質を持つ(中略)の意を表す」とあります。ズバリと言うことを避けているわけです。こういう気遣い(弱気)と、ヘイトスピーチのような容赦ない罵倒(強気)が、両極化していることが気になります。人々が両極に分かれているのではなく、同じ人が両方をやっていそうなことにぞっとするのです。「○○死ね、出て行け」と叫んでいる人が、身近な相手には気遣い全開の物言いをし、スマホなどでかわいらしい絵文字・顔文字・スタンプを駆使する。うっかり既読スルーすれば、ここぞとばかりにいじめられる。
なんという痛ましい綱渡りでしょう。それほどまでに他者は恐ろしく、瞥成しなければ私たちは生きていけないのでしょうか。下手な鉄砲も数打ちゃ当たると言いますが、むやみに気遣いばかりして疲れ果てるより、もっと的を絞ったほうが楽でしょうに。器用に立ち回ろうとするほどに、生きつらく不器用になっていくようです。
ともあれ、字幕屋が悩んでいるのは、もっと上っ面の話。先日、字幕原稿に「私的な会話」と書いたら、若い担当さんに「“わたしてきな会話” は、日本語として変では? 」と言われました。仰天しつつ、「してき」とルビをふるのも業腹なので、「では『内輪の会話』に修正します」と答える弱気な字幕屋。もう少し強気で抗戦すべきでしょうか。
私も筆者と全く同感。はっきりものを言うとバッシングされる社会、又、やたら自己主張ばかりする人、解決する方法を考えたい。

2014年10月21日火曜日

枕草子


NHKの「100分で名著」で清少納言の「枕草子」をやっている。解説は文学博士の山口仲美氏である。その中でマナーの欠ける人の事を述べているところがあるので紹介する。
マナーに欠ける人とは?
では、清少納言は具体的に、どんな人がマナーに欠け、どんな人がマナーにかなっていると言っているのでしょうか?まずはマナーに欠ける人の例から。「にくきもの」(二六段)という章段に集中して書かれています。「にくし」は、現代語の「にくい」ほど、相手に対する攻撃性を持っていません。現代では、「殺してやりたいほど憎い」のように、相手に何か害を与えてやりたいと思うような強い攻撃性があります。
平安時代の「にくし」は「気に入らない」「癪に障る」「いやだ」くらいの意味で自分自身の中にとどまる感情です。
「にくもの」の章段には、清少納言の規範意識や美意識から外れるものが「にくし」として列挙されているので、裏返すと、「そうあってはならない」という礼儀作法が説かれていることになるわけです。
さて、この章段から、マナーに欠ける人を抜き出してみましょう。後ろに現代語訳をつけておきます。
いそぐ事あるをりに来て、長言するまらうど。あなづりやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど、心はづかしき人、 いとにくくむつかし。
(急いでいる時にやって来て、長話をするお客。軽く扱ってもいい人なら「あとで」などと言って帰してしまえようが、気のおける立派な人の時は、そうもできず、ひどく憎らしく困ってしまう。)
いますよね、こういうお客。出かけようと思っている矢先に玄関に現れ、こちらの都合も考えないで長々と話す。こちらが落ち着かない様子を見せても、ちっとも察してくれないでどんどん腰を据えて話している。
今から1000年位前の「枕草子」書かれていることは、今とまったく変わらない。人の心は簡単には変わらないものなんだなあ。